月曜日, 8月 29, 2011

松本 零士

最近、松本零士の漫画、宇宙戦艦ヤマト、宇宙戦艦まほろば、銀河鉄道999、キャプテンハーロックをたて続けに読みました。
妙に惹かれるものがあったからです。
そして、以下のような文章がわいてきました。
私の受け取り方は、間違っているかも知れません。
今の時代には合わないかも知れません。
でも、私の心の底に潜んでいた想いだったことはたしかです。

作者松本零士がなにを語ろうとしているのか、私の中にすとんと落ち着くものを感じる。
それは、「第二次世界大戦で非業の死を遂げたすべての戦死者の魂に語りかけている物語なのだ」ということだ。

お国のために彼らは死んでいった。
でも、本当は自分のために死んで生きたかったのではないか。
自分の夢や理想、家族のために命を賭けて戦ったのだと言いたかった。
しかし、時代は「国のために死ね」と言う。

松本零士は、彼らの魂とともにあって、彼自身の魂の世界に戦死者の魂を呼び、「この世界で君たちと一緒に、納得できる目的のために、夢や理想のために、家族のために、本当に納得できる目的のために生きよう」と、語りかけているのではないか。
そのように思える。

戦後社会に始まった混乱は、非業の死を遂げた彼らの魂の言葉を聞くことなく、
今生きている自分の欲望を追求することのみを善として追求してきた。
それは、死というものを前提としない、生しか存在を許さない社会を意味する。
だから、兵士たちの魂の叫びを聞こうとすらしない。

テレビのドラマでは毎日何人も殺人や自殺者が映し出されるが、そんなものは本当の死者ではないことは、誰でも知っている。
だからテレビは映す。
そんなものに、死を訴える力はない。

逆に、偽の死を毎日見せることによって、本当の死を隠しているのではないだろうか。

そして、テレビや新聞は本物の死者をまともに直視しない。
現代社会では、そこに生きるものには死者の存在が許されないのだ。
死者の写真はどこにも映し出されることはないのだ。
死者はいつもブルーのビニールシートに覆われて、画面に登場する。
しかし、死者がそこにいるとされているビニールシートの下に本当に亡くなった方がいるのだろうか。

それは、このたびの震災でもそうだった。
国や東電は、真実を隠していると、マスコミも識者も国民も声高に叫んでいる。
そうかも知れない。
しかし、本当に隠蔽されているのかどうか、私はその真実を知らない。

同じように、死者はビニールシートの下に、本当にいるのだろうか。
「死者がいる」という抽象的な言葉だけは知らされても、死者そのものの具体的な存在をみることはない。

現代医学もまた死を許そうとしない。
なんとしてでも生かそうとする。
その結果、脳溢血で倒れると、多くの人が死ぬことが出来ず、寝たきりになってしまう。
社会の構成員として最後に自らのいのちを全うさせることを医学は許そうとはしないのだ。
家族すら延命を願う。

それを社会は、善と呼ぶようだし、愛と呼ぶのかも知れない。
ただただ、寝たきりの状態を作りだし、介護施設に隔離しようとしている。
隔離して社会から抹殺して、本人が本当に死ぬことが出来たときには、その死を社会はほとんど知らないですむような仕組みを作り出しているのだ。

介護保険の仕組みは、強制収容所を作る仕組みのようなものではないか。
寝たきりになって何年もたち、ようやく死ねたときには、家族はその死を知れるが、かつての戦友である職場の仲間、友はとっくに彼の存在を忘れている。
いや、忘れてはいない。
しかし、存在が希薄になってしまっているのだ。

医療費や介護費がどんどんふくらんで、どんなに大きな負担を社会が強いられようと、死者を作るまいとする。
死がないまま、社会から抹殺する仕組みを作っている。

私たちはいずれ死ぬ。
死にたくても、死にたくなくても、いずれ死ぬ。
そして、死はやはり恐怖であることは変わりない。

柳田国男の『サクリファイス』という本がある。
そこに書かれていることは、こうだ。
彼の息子が精神を病み、自死を選んだのであるが、「息子の死の意味をどのように親である自分がとらえたらいいのか」と著者は苦悩する。
息子は、『自分が死ねば自分の存在は、どこにも痕跡を残さずに永遠に消えてしまう』ことを悩んで結果として自死を選んだのである。

このような苦悩が生まれる背景には、死者の魂を意識的に抹殺する現代社会の習癖があるのだと思う。

死の瞬間とは、「その人が生きたそのままが生かされる瞬間」なのではないか。
その瞬間が、魂を確かな実在にしてくれる。
その瞬間がないと、魂は希薄になり、やがて誰の心にも残らす、消えていく。

介護の果ての死は、彼(かれ)がかく生きようとした(このように生きようとして、生ききり、苦悩をし、幸せを得、努力した)すべてがすり切れてしまってから、ようやく死ねるというシステムによって、強制された結果としての死である。

本来なら死ぬことによって、人間は彼が生きている今のこの瞬間の強烈な存在感が一瞬に絶たれた結果として、残ったものへの強烈なメッセージとなるはずである。

その強烈なメッセージがすり切れぼろぼろになってから、ようやく死ねるというのが、現代ではないか。
私は医師の内場廉先生が熱烈に訴える寝たきりを半分に減らせというメッセージに感動して、内場医師とともにNPO法人を作った。
私には、内場先生が「こうした社会の仕組みと戦って、死の瞬間まで強烈な存在感を示して生き抜ける自分になりましょう」と、言っているように思えるのだ。

かつては死を直視しようとする社会だった。
そういう社会では、宗教も社会の構成要素としてしっかりと足場を築いていた。
今は、御利益のためにしか宗教が存在しない。
あるいは、宗教は見せかけの弔で巨額の富を築きあげている。

私の薫陶を受けた禅は、死を見つめる宗教だった。
そのような坐禅をし呼吸法だった。

呼吸法という営みは、まさに今ここに生きていることは死と同一のものだと見極めるためにある。
武道は、今でもその道に真剣に生きるもには、死と向き合うことを旨とされている。
茶の道もそうだった。
一部の人たちをのぞいて多くはスポーツ化しすでに道は廃れてしまっているが、もともとそういうものだった。
スポーツも元々は、戦、つまり死と隣り合わせで生まれ進化したはずだ。
今は、そういうスポーツは、ないだろう。

今、放射能に対する異常な恐怖が、世の中を席巻している。
ここで、原発がいい悪いをいうつもりはない。
見えない恐怖は、添加物、農薬、環境汚染、気候変動による食糧危機、限りない世界人口の増加、いくらでもある。

放射能は、そうしたものの一つに過ぎない。
何シーベルト、何ベクトルという。
数値という魔術に引っかかって、現代人は恐怖を抱いている。
現代人が感じている環境や、社会に対する漫然とした不安を、放射能は代表して数値で示してくれているのではないか。
数値によって人は、リアリティーを感じるからだ。
数値によって、死の恐怖を具体的にみせてくれるからだ。
つまり、皆が放射能に注目するのは、死というリアリティーを感じさせてくれるからではないか。

死のリアリティーこそ、今ここに生きているという生のリアリティーを確かなものにしてくれるのだ。
いつ、東海、関東、西南海地震が起きるか判らない。
余震が続く間は、その恐怖もまた、生死のリアリティーを私たちに突きつけてくれるであろう。

死をひた隠しにしてきた現代社会のほころびが今、見え始めた。
それが震災後の社会が目の当たりにしていることではないか。
今後、私たちが、死を見据えていく社会を作っていけるかどうかで、日本の将来が決まってくるように私は思う。

火曜日, 1月 26, 2010

一円相 2

百二十㌢四方の紙に太い筆で円を書く。

まず、すずりに向かう。
姿勢を調え、落ち着いて静かに墨をする。
穏やかな活力呼吸法をしながら、墨をする。

強い活力呼吸法をしながら太い筆に、たっぷりと墨を含ませる。

紙と向き合って、姿勢と呼吸を調える。
下腹に力を入れてゆっくりと息を吐きながら書く。
一円で一呼吸だ。
一円書いたら、静かに筆に墨を含ませる。
紙を取り替えてまた一円。
一呼吸に一円。
何枚も何枚も書きつづける。

上手にかけたとか、ぐにゃぐにゃの円だとか、そういう判断が消えたとき、なんでもいいその時、これだという文字を書いてみる。
すると、急に頭の中がざわざわとする。
「ああ、今まで沈黙があったのだな」と気がつく。

その一呼吸になりきったとき、沈黙が支配する。そのことを呼吸法と言う。
呼吸法の難しさは、下腹を絞るなどのやり方にあるのではない。吐いているときに吸うことを考えてしまうところに難しさがある。
このやり方でいいのかと考えてしまうところにある。
ただ吐くことだけになりきれない難しさにある。

なりきるためには、心をしっかりした場所に置くことだ。一番いいのが、心を下腹の恥骨に近いところに置くことだ。
丹田とか、チャクラとか色々な言い方があるが、そういうイメージ的意味づけにこだわるのはバツだ。
自分の心が落ち着く一点は、そこしかない。
そこが沈黙の一点だ。

月曜日, 1月 25, 2010

一円相

友人が数年ぶりに遊びに来てくれた。
私たちは少ない言葉で語り合った。
ポツリポツリと話題が浮かんでは消えていった。
書の話になる。彼は書道をするのだ。

「希望の朝」と書いてある小学生の作品を見ながら「これは大胆でいいね。太いし、大きくてはみ出している。」
「こっちのは優しいな。」
「この『の』字はよく書けているね。筆をかえすところがうまくできている。」
「難しい。僕なんか、大人になっても形を整えられなかった。」
「書は上手下手ではないよ。」
「うん。何か語っているものがある。」
「踊っているなんて言うのはあんまりいい意味には使われないけど」
「筆が舞う、ということもある。」
……
「子供の字を添削するときはどういう風に見るの?」
「よいところに丸をつける。」
「おとなしい子がおとなしくまとまった字を書く分けではないね。」
「うん。勢いとか、筆遣いとかで意外な字を書く子がいるよね。」
「こころが書かれている。」
「隠れた性格とか」
「そう言えば、『朝』ならいかにも朝の感じがするような字を書く練習をしている人が牛久にいたよ。」
「そう言うのも面白いな。」

この友人とは、かつて大きな紙に一円相を書いた。
いく枚も書いているうちに筆は自由に動き、前衛的な書というか抽象画のようになった。これを仮に自由書と呼ぼう。
それは、その瞬間の沈黙の一筆で終わる。同じものは二度と現れない。
ちょうど人によって指紋が違うように、ここに描かれた模様は一瞬の時間の指紋が形として残されたといえる。

時間の矢は流れる。瞬間瞬間に時間は指紋を残す。
私たちの生活の、ほんのわずかな所作、たとえば箸の上げ下ろしの瞬間の中に。
湯呑を口に持って行く所作から通勤電車の中でただひたすら到着を待っているときにも、指紋が残る。
しかし、形としては残らない。
ただ、指紋を書きとめる手段があれば自由書のようにみることができるだろう。

さて、一円相を何枚も書いてから、そのような自由書を書いてから文字を書いてみる。
たとえば、「希望の朝」と……。
すると、脳の働き方がグラッと変化することが経験される。
円相や自由書と文字を書くのとでは感覚がぜんぜん違う。異質なのだ。
意識の質が違うのだ。文字を書く働きは、いわば自我的。円相や自由書を書くときの意識の働きは「無」の場にある。
冥想的である。

こういう変化は、日常生活の中にあたりまえにあるが、このことがはっきりわかるのが、円相-自由書-文字というこのやり方だ。
<一円相>や<自由書>は文字ではないから勢いとか、優しさとか、緊張、萎縮、大胆さなどが如実に現れる。
円相を書き始めるときは、上手に書こうとか、どの辺にどのくらいの大きさで書けばバランスがとれるかとか、いろいろと体裁を考える。そういうものが指紋として残される。

幾枚も幾枚も書いているうちに、そのような思考は消えてゆく。
大きな紙だから体力も使う。
体を使うことで精一杯だから、考えは消えて行く。
何も考えないままに書く。
それが自由書に続き文字に移る。
文字は意味を持つ。とたんに思考が始まる。
つまり、行間を読む心の働きから、意識の中心が文字ないし行という、いわばデジタル的な情報を読む心に移行しているのだ。

普通に冥想を始めると、じきに静けさを感じられる瞬間が来る。
それでいて、聞こえてくる雑音はそのままだ。
自分が透明になって、すべての音がすり抜けて行くようだといったらいいかもしれない。
いままでざわざわとしていた心が急に森閑とする状態だ。これは、<円相-自由書>にあたる。
冥想の坐から、立ちあがると心は再びさまざまな言葉が飛び交うようになる。
<文字>にあたる。

実際の冥想状態は多様で、つぎつぎとイメージが湧き上がることも、ひとつのイメージが続くことも、イメージが薄れ消えて行くことも、まったくの「無」も。恍惚とした状態になることも。
歓喜に包まれることも。そのほかさまざまにある。
そして、まったく同じ経験を二度とはしない。また、私の冥想経験とあなたの冥想経験とは、同じにはならない。
同じようなものとして、括弧でくくることができてもちがう。

それを言葉に表すときひとによって、文学的に表現したり、宗教経験として表現したり、絵画や音楽で表現したり、心理現象として記述したりする。
しかし言葉では、その本質にたどり着くことはできない。

日曜日, 11月 01, 2009

まず呼吸法から始める

健康は、才能と同じで、健康に恵まれた人は、苦労なく健康を手に入れて天寿を満足できるでしょう。
ただ、才能におぼれて失敗することがあるように、健康におぼれて不健康になることもあるでしょう。
暴飲暴食や飲酒、タバコなどのこともあるでしょうし、「健康だから」と無理をしてしまうこともあるでしょう。
そうなったときに健康を回復するのは、容易でないことも私たちはよく経験しています。
どのように努力したらいいのでしょうか。

また、特別な才能を持っていない人が大勢いるのと同じように、特別に健康に恵まれているわけではない人も、大勢いると思います。
もしかすると、吾々のほとんどはそれほど健康に恵まれていないかもしれません。
そういう場合、現代生活では健康を阻害する要因が多すぎることもあり、かなり努力しないと命を全うするときまで健康を維持できないでしょう。

一方、健康情報は無数にあります。
そして、新しいことが次々と分かってきます。
そういう中で、健康のために何をどのように努めたらいいのでしょうか。

冷静に自分の身体を見つめながら、自分にとって一番いい方法を見つけなくてはなりません。
それで、すべてがよくなるわけではありませんが、私たちにとってまずしなくてはならない最初のことは、身心を静かに見据えて、一番いい方法を見つけ出す感性を養うことではないかと私は考えています。

感性を養うには、呼吸法が非常に役に立つと私は考えています。
呼吸法が役立つのは、それだけではありません。
生きる上で、健康のことばかりでなくさまざまなことが起きます。
それに対処し、「充実した人生を歩むために呼吸法がある」と、私は考えています。

そして、この感性には脳幹、大脳基底核、視床下部、脳幹など、身心の機能を調整しているさまざまな仕組みがかかわっています。
そして、これらの部位はまた、人間関係をよくしたり、身心の健康を維持したりするなど人間の人間として生きる上で重要な役割を担っています。

ですから、呼吸法は人生丸ごと改善する上で、役立つと、私は考えています。

それで私は、何かあれば先ず呼吸法から始めることにしています。

金曜日, 8月 14, 2009

一夜賢者の偈

ある田舎町の駅で電車を待っていると、売店のおばさんと客との話が耳に入った。
「お金が入らなくなってね」
「どうしたの」
「リストラにあったんだよ」
「そうなの。それでどうするの」
「仕方がない。どうしようもない」
会話からすると、売店のおばさんと客とはなじみのようだ。
こんな田舎の町でも派遣社員のリストラが、起きているのだ。

日々深刻化する、派遣社員の切捨てなどについて、さまざまな角度から報道されている。
ただ、報道では個性が無視されている。
辞めさせられた人の心の内は、同じように困り、同じように強い不安を持っている。
そのようにみえてしまう。

今あなたが、困難な状態に陥っているとして、あなたの困難は、ほかの人の苦境と同じではないし、必ずしも一般的な解決法が役に立つとは限らない。

ひとりひとり違うから、ある人は自殺してしまうし、ある人はこれをチャンスに変える。
その幅の中で無数の答えがある。

自分にしかわからないことがあるし、自分にはできてほかの人には解決できない方法だってあるかもしれない。

私たちは、一人ひとり自分自身の問題に自分自身の内側で、真正面から受け止めて、解決しなければならない。
では、どのように受け止めたらいいだろうか。
その答えは、下の偈にある。

一夜賢者の偈

過ぎ去れることを追うことなかれ。
いまだ来たらざることを念(おも)うことなかれ。

過去、そはすでに捨てられたり。
未来、そはいまだ到らざるなり。

されば、ただ現在するところのものを、
そのところにおいてよく観察すべし。

揺らぐことなく、動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。

ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。
たれか明日死のあることを知らんや。

まことに、かの死の大軍と、
遭わずというは、あることなし。

よくかくのごとく見きわめたるものは、
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。

かくのごときを、一夜賢者といい、
また、心しずまれる者とはいうなり。
中部経典 増谷文雄訳

味わいのある、真に自分のものとなるべき偈は、一度読んでもわからない。
二度読んでもわからない。
三度、四度、何度でも繰り返し呼んでいるうちに、ああそうだとわかる。
わかっても、繰り返し読んでみよう。
新しい発見は、何回でも、起きる。
自分が進歩するに従って、何度でも発見がある。

この偈は、お釈迦様の物語のなかにある。
お釈迦様のお弟子さんにサミッディという方がいらした。彼がマガタ国の王舎城で修行をしていた時のことである。
サミッディはその時、温泉に浸かっていた。すると天人がやってきて、サミッディに問いかけた。
「偉大なるお釈迦様のもとで修行されている方よ、あなたは『一夜賢者の偈(げ-詩のこと)』をご存知ですか」
サミッディは知らなかった。
「いや、知りません。それはどんなものですか」
「修行者よ、それはあなたの師にお尋ねになるがいいでしょう」
天人は、そう言い残して去っていった。
彼がお釈迦様のところへ行って尋ねた。
それがこの偈である。

お釈迦様は、「一夜賢者の偈」を説き終えると、静かにその場を立ち去っていったという。

どんな意味なのか、どんな解釈なのかは、「一夜賢者の偈」をネットで検索すればたくさん出てくる。それを参考にしていただきたい。

ただ私は、おしゃかさんが言いたかった急所は、
「そわ見極め、そを実践すべし」だと理解している。

「自分のすべきことを見極めて、行動せよ」
自己洞察と行動である。
行動することは、体を使うこと、筋肉を使って体を動かすこと、
心の問題を心あるいは頭での解決を求めているのではない。
お釈迦様は、何よりも行動を求めていると私は理解する。

今に生きるというような抽象的なことでなく、自分の意志で行動することを求めているのではないだろうか。
行動こそが具体性そのものだからだ。

ここでちょっとうがった観方をしてみよう。
これはサミッディの物語だ。
サミッディは、なんで温泉につかっていたのだろうか。
修行に疲れたのだろうか。
人生に行き詰まっていたのだろうか。
しばし癒しのときを過ごしていたに違いない。

そのとき何かが彼の頭の中をよぎった。
「こんなことをしている場合か ! 」
癒しだけでは何も進まないのだ。

木曜日, 4月 30, 2009

Life Biology(人生生物学)

人生を命の学問(生物学)の対象として考察する。
そして、よりよき人生の充実を目指す。

科学者と親しく付き合っていると、どのような学問を専門にする科学者も、その学問をする人の人生から世界を見ている。
とすれば、人生そのものを学問にすることも出来るはずだ。
「そのような学問があるとすれば、どんなジャンルになるかな」と、考えた。
それは社会学でもないし心理学でもない「生物学ではないか!」と思い当たった。
それで、Life Biology(人生生物学)と名づけた。

人生生物学とは、生まれてから死ぬまでの人生そのものの生物学。
ストレスなど環境刺激を受けて、心が動き、身体が変化しながら、成長、成熟、人間として完成し生を全うするそのすべての生物学。
生きる時間の中で、身体と心のすべての生物学。

社会に生きる、家庭に生きる、創造する、森羅万象宇宙の法則を発見する、真理を探究する、スピリチュアリティー(霊性)を発揮する、信念や信仰に生きる……人間の営みは多様でそれぞれに奥深い。
それぞれに自らの道を意義あるものと考えている。

では、そのように営む主体は何か。
その主体を仮に「われ」と呼んでおきたい。
誕生の瞬間から死ぬまで、環境に応じ変化し続け、生きがいを見出し、目的や理想に向かって突き進む。そういう「われ」の生物学をLife Biology(人生生物学)という。

人生(Life)という言葉を考えてみよう。
人生というのは、心が無くては成り立たない。体が無くては成り立たない。

心と体は、ソフトとハードの関係ではない。
ソフトとハードの関係は、ソフトはハードが無くてもある。ハードはソフトが無くてもある。
ハードがなくてはソフトは動かない。ソフトだけあってハードがなければ、何もおきない。
よく体験する例でいえば、CDメディアあるけど、プレーヤーが無くて困るということと同じだ。
そういう関係だ。

しかし、心と体はそういう関係ではない。

紙の裏表の関係だ。
裏が無ければ、表は無い。表が無ければ裏は無い。
陰陽の関係だ。
陰が無ければ陽は無い。陽が無ければ陰はない。
時空の関係だ。
時間が無ければ空間は無い。空間が無ければ時間は無い。

心が無ければ体は無い。体が無ければ心は無い。
体と心があっての人生。
人生丸ごとの生物学。
それをLife Bioligyと呼ぶことにする。
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ここで誤解のないように付け加えておきたい。
魂とか神仏は、肉体や心とは関係が無い。
心でもないし肉体でもない。
個々の心と肉体によって感受されるかどうかで、あるとかないとか言う話になる。
Life Bioligyが対象とするものではない。

日曜日, 4月 05, 2009

魂の旅のために

私たちは、ひとりひとりそれぞれ一つの道を選ぶ性向を持って生まれてくる。

心理学で言うように「こういう幼児体験によってこういう人生を歩んでいる」というのではない。
また、生まれたときから目的が決まっているのでも、何かのために生まれたのでもない。

遺伝子によってそうなるのか。
しかし遺伝子は、私が私として生きる意味をいだいて、一つの傾向を持たせるようなものではないだろう。

ものごとや人、社会と向き合ったとき、一瞬一瞬に出くわす出来事に対して、自分のとる態度には、一貫した傾向がある。
そういう傾向を持って私たちは生まれてくる。
ほかに選択があっても、そうせざるを得ないような止むに止まれぬ想いに駆られて行動する。
そういう傾向だ。

このことが、人生を成功させるか失敗別だ。
成功や失敗は、その傾向をどのように表現するか、どのような目的として表現するか、その目的に向かって意志を持ち続けられるか、と関係するだろう。

何か問題に遭遇したとき、自分の傾向を見据えるとき、
今、この瞬間の自分にとって大切なことが見えてくる。
アクシデントが起きたとき、
それはこの傾向を目的化し、意志を持って追求していくチャンスだ。
それをチャンスとするかどうかは、自分の選択にかかっていて、傾向ではない。
その選択には、自由が与えられている。

火曜日, 1月 03, 2006

ファイナルシークレット

元旦の夕方、ナイル川の源流を捜し求めた探検家達のことをテレビで放映していた。アフリカのジャングルを踏み込み、砂漠や湿地、高い山や大きな滝、そして、疫病などとさまざまな障害に挑みながら、偉大な古代文明を支えたナイル川の源流を見つけ出すことは、十八世紀の探検家達にとって、至難の業であった。
ナイル川の源流は、どこから発しているのだろうか。それらしき湖は幾つか見つかっても、なかなか大自然は秘密のベールをぬいてくれなかった。
やがて、候補となるいくつかの湖が見つかり、それぞれの湖から流れ出るいく筋もの河から大ナイル川を形成していた。
しかし、ファイナルシークレットが残された。巨大な湖群に大量の水を注ぎ込んでいるその源は、なにかという問題だった。


番組が終わってから、調べてみると、
アフリカというと、砂漠とジャングルを思い出すが、ジャングルの奥地から、広大な砂漠に流れ出て、乾燥した砂漠に河は飲み込まれることなく、さらに何千キロと、エジプトの大地を貫き、地中海に注ぎ込む。今日のナイル川の水量は、毎秒2830立方メートルもあるのだ。
そのもともとの水は、どこから来るのだろうか。
それは、エチオピアにある海抜5000メートル級の山に降りそそぐ雨が供給しているのだった。



この番組を見ていて、「ファイナルシークレット」という言葉が、耳に残った。
このとき、「僕にとって、ファイナルシークレットってなんだろう」とふと尋ねてみた。
そして、「自己こそファイナルシークレット」ではないかと思った。自分が問い掛けて、答えを求めつづけていることは、19歳のときから、一貫している。それは、「自分とは何か」という、問いだ。
この問いゆえに、ラーマクリシュナに興味をもちインド思想を勉強し、そこから、仏教、禅と老荘思想と、問いつづけてきた経緯がある。さらに、有田先生の坐禅のセロトニン仮説から、生理学的な視点からの自己追求という方向も始まった。この数年は、身心全体を動かしている生理学的システムを追求している。

しかし、今書いたことは、自己の存在の外側にむかって答えを求める姿勢が根底にある。

つまり、誰かの言葉か、客観的な答えを外界から見つけようという姿勢だ。

しかし、ファイナルシークレットの答えは、自己の内側から、見出さなければならないだろう。

その方法を冥想と呼び、坐禅と呼ぶ。その答えを求めて歩む人生を道を歩む旅人という。

木曜日, 11月 24, 2005

生きる意味を感じる力

生きる意味を感じる力は、私たち自身の内側から湧き上がってくる。
絶え間なく、力強く湧き上がってくる。その力が私たちを支えてくれている。その力があるから、どんなことがあっても生き抜くことができる。

私たちが生きているということは、生きる意味を感じる力が湧きあがっているということで、それは、根源的な生命の力だともいえよう。
生命体は、どんな生命体でも同様の力を持っているに違いない。
人間は、この力を使って喜びを感じ、悲しみを感じ、楽しさを感じ苦悩をする。
人間は、この力を使って幸福にもなり不幸にもなる。
人間は、この力を使って愛し、慈しみ、創造し、文化を生み、幸せな家庭や友達や仲間を作る。

ああ、偉大なるかな、意味を感じる力よ。

火曜日, 11月 22, 2005

科学的人間論と洞察的人間論

今日、健康や医療は科学的に分析する方法が正しいとされている。
命を科学的に分析して、解釈しその結果として健康になったり、治療が出来たりする。
そういう時代である。

しかし、さまざまな意味で現代医学には超えられない壁があることも事実だ。
その壁を乗り越えるのに、代替医療という概念が生まれている。
西洋医学ではない、漢方医学や、気功法、民間療法、運動、マクロビオティックなどさまざまな代替医療に対する社会的認知は、広まりつつある。
ここには、人間を全体として認識することで、西洋医学に見放された人たちのよりどころとしての健康法であり医療が求められているという背景があるのではないか。

代替医療のポイントは、人間そのものが語る言葉を真摯に聞き取るというような姿勢にあるのではないか。人間そのものが語る言葉は、耳に聞くことが出来ないし、目にみることも触れることも出来ない。しかし、それは人間を深く洞察ものだ。
分析も大切だろうが、深く洞察するという智慧を現代人は、学ばなくてはならないのではないか。

そんな風に思う。

真の洞察力を養うには、いつでもどこでも自然に冥想ができることが大切であろう。
そして、冥想する力を養うには、正しい呼吸法が大切だと、私は考えている。

金曜日, 11月 04, 2005

病気を治すのではなく人生を治そう

今、健康法がおおはやりだ。
かくいう私も、健康法や代替医療にかかわっている。
だから、そういう仕事にかかわっている時間が多い。

しかし、こういう流行の健康法や病気の治療法を考えることよりも、人生の治療を、人生の病気を治すことが根本治療になると私は考える。

人生という総合的な事柄の中に、その一つとして病気や健康があるのだ。

人生という言葉の意味することは、生まれてから死ぬまでの時間の道を旅する旅人の経験する出来事、事件、そして、風景、共に歩む人たち、そして体、心、深い精神性つまり魂の体験、そういうことの総称である。

木曜日, 11月 03, 2005

科学では絶対に答えられない問い

科学の進歩が目覚しく、今分らないことでもいつかは、分るようになると思われることは、たくさんある。
しかし、科学では絶対に答えられない問いもたくさんあろう。
その中でも、もっとも重要な問いは、自分とは何かという問いだ。その問いに答えるには、自分自身がじかに答えるしか方法がない。
自分の外から、自分に答えるのではなくて、直に答えなくてはならないから、客観的に答えようとしては、無意味となってしまう。
あなたは、だれ?
と聞かれて、私が答えるその答えは、どんな答えだろうか。
そんなことを詩的に下記のURAに書いた。
http://uchyu.blog.ocn.ne.jp/

日曜日, 10月 02, 2005

宝玉の日々

久しぶりに早朝の庭に出た。
すでに秋だった。
一抹の寂しさを感じながら、この二週間ほどの間に起きたことを思い起こしている。昨日もおとといも、窓の外に展開する稲刈りの様子を観ていたが、秋を感じはしなかった。今日になってしみじみと庭を見ることが出来たのは、父がなくなったあとのさまざまなことが一段落したからだろうか。

一期一会という言葉がある。今の出会いは、今生ただ一回の出会いだから、大切にせよという意味だ。
私は、一劫一会という言葉を時々使う。
劫とは、「四十里四方の大岩に百年に一回、天人が舞い降りて、薄絹の羽衣で岩をこすって、天上に戻る。このようにして、岩が少しずつ削り取られてなくなるまでの、気の遠くなるような長い時間」という意味だ。

輪廻転生するとか、天国地獄を信じるか信じないかはそれぞれの人の生き方に任せるが、次のことだけは間違いなく確かだ。
私たちが今この時代、この場所、この名前で、このような人間関係で付き合うのは、たとえ一劫という時間を転生しようがしまいが、今生のただ一回だけだ。

「今日、この瞬間の出会いが大切だ」と深く感じるようになったのは、今年の春から夏にかけてだ。最初は、子供が高校を卒業し、家を出たときに、「あっという間だったな」と思った。あっという間でも、子供が生まれてからこのときまでいつも充実していた。充実した人生を天が与えてくれたものかもしれない。

充実していたけれども、あっという間だった。
とすれば、妻と向き合って食事をする当たり前の時間もまた、あっという間にすぎてしまうに違いない。書斎で文章を書いていると妻の弾くピアノが聞こえる。ずっと前からいつでも聞こえてくるので、これも当たり前になっている。
でも、こういう日々もいつかは終わりになる。

「今当たり前なことは、本当は当たり前のことなのではない。」

一日一日が、宝玉のように尊い。

そういう実感がひしひしと感じられる。
誰かのいった言葉ではない。
私の中から沸きあがる声がそのように迫ってくるのだ。

日曜日, 9月 11, 2005

魂のキャッチボール

父は、九十三歳。
夏の間に、少しずつ体力が弱まり、八月末にとうとう入院をした。
一時は、危篤だということで、東京へ行ったが、持ち直している。 とはいえ、医者はあまり長くないから、親戚などに知らせ、今のうちに会っておいてもらった方がいいという。

病院での感想は
いつもながら医者は、病気を見ているけれども患者の人生を見ていないなと思った。
入院しているという状態は、患者にとってその人生の一駒なんだという理解があると、対応がもう少し違うのではないか。

親切でないとか、サービスが悪いというようなことではない。

若い医者だからしょうがないといえばいえるかもしれないけれども、難しいことには違いない。
なんと言うのか、例えば、私がヨーガの指導をするとき、私もみんなもその瞬間、人生を共有しているという感覚が大切なのと同じではないかと思うのだ。

感覚の世界だ。

医者も患者を診ているその瞬間は、自分の人生の一齣で、その一齣を患者と共有しているという感覚が欲しいのだ。
医者がいうことも、やることも変わらなくてもいいのだ。

このことは、あらゆる人間関係に通じるだろう。買い物をするとき、店員と客とはそれぞれの人生の一齣を共有する時間なのだ。
物だけが、そのこを移動するのではない。
店員も客も、魂のキャッチボールをしているのだという事を忘れてはならないだろう。

あーしゅらむとは道場という意味

あーしゅらむとは、道場という意味だ。
自分自身の体が、自分を見つめ、自分を深めるための道場だという意味でこのタイトルをつけた。

私は、世界に対して、違和感を持っていた。何かが、自分にしっくりこない。

この感覚は、いわゆる現実生活を送る中で、埋没されてしまう。
しかし、本当に本当のところ、何かが違う。何かまったく別な世界に自分は、本当はいるのだという感覚を拭い去ることができない。

人に読んでもらおうなどと思わずに、というか、人がどう思おうが勝ってだという気持ちで書いているうちは、何ともなかったが、人に評価されるようになると、誰の感性とも自分は違う、自分と本当に同じ心を持つ人がいないということをしみじみと味わうのだった。

そんなことを考えているうちにいつのまにか、人に読んでもらうために、あーしゅらむを書いているようになった。それが、だんだんに苦しくなってきたのだ。
それで通信を書けなくなってきた。

でも、何か自分で自分に対して確認をとるために書かずに入られない思いにかられる。
そこで、このブログを始めてみた。

時代を超えて

時代を超えて、人の心の中に貫いている真実の魂がある。そんな魂を自分自身の中に見つけながら、過去に生きた無数の人格とも、未来に現れるであろう無数の人格とも、語り合いたい。
そんな気持ちになって、このブログを始めた。