生きる意味を感じる力は、私たち自身の内側から湧き上がってくる。
絶え間なく、力強く湧き上がってくる。その力が私たちを支えてくれている。その力があるから、どんなことがあっても生き抜くことができる。
私たちが生きているということは、生きる意味を感じる力が湧きあがっているということで、それは、根源的な生命の力だともいえよう。
生命体は、どんな生命体でも同様の力を持っているに違いない。
人間は、この力を使って喜びを感じ、悲しみを感じ、楽しさを感じ苦悩をする。
人間は、この力を使って幸福にもなり不幸にもなる。
人間は、この力を使って愛し、慈しみ、創造し、文化を生み、幸せな家庭や友達や仲間を作る。
ああ、偉大なるかな、意味を感じる力よ。
木曜日, 11月 24, 2005
火曜日, 11月 22, 2005
科学的人間論と洞察的人間論
今日、健康や医療は科学的に分析する方法が正しいとされている。
命を科学的に分析して、解釈しその結果として健康になったり、治療が出来たりする。
そういう時代である。
しかし、さまざまな意味で現代医学には超えられない壁があることも事実だ。
その壁を乗り越えるのに、代替医療という概念が生まれている。
西洋医学ではない、漢方医学や、気功法、民間療法、運動、マクロビオティックなどさまざまな代替医療に対する社会的認知は、広まりつつある。
ここには、人間を全体として認識することで、西洋医学に見放された人たちのよりどころとしての健康法であり医療が求められているという背景があるのではないか。
代替医療のポイントは、人間そのものが語る言葉を真摯に聞き取るというような姿勢にあるのではないか。人間そのものが語る言葉は、耳に聞くことが出来ないし、目にみることも触れることも出来ない。しかし、それは人間を深く洞察ものだ。
分析も大切だろうが、深く洞察するという智慧を現代人は、学ばなくてはならないのではないか。
そんな風に思う。
真の洞察力を養うには、いつでもどこでも自然に冥想ができることが大切であろう。
そして、冥想する力を養うには、正しい呼吸法が大切だと、私は考えている。
命を科学的に分析して、解釈しその結果として健康になったり、治療が出来たりする。
そういう時代である。
しかし、さまざまな意味で現代医学には超えられない壁があることも事実だ。
その壁を乗り越えるのに、代替医療という概念が生まれている。
西洋医学ではない、漢方医学や、気功法、民間療法、運動、マクロビオティックなどさまざまな代替医療に対する社会的認知は、広まりつつある。
ここには、人間を全体として認識することで、西洋医学に見放された人たちのよりどころとしての健康法であり医療が求められているという背景があるのではないか。
代替医療のポイントは、人間そのものが語る言葉を真摯に聞き取るというような姿勢にあるのではないか。人間そのものが語る言葉は、耳に聞くことが出来ないし、目にみることも触れることも出来ない。しかし、それは人間を深く洞察ものだ。
分析も大切だろうが、深く洞察するという智慧を現代人は、学ばなくてはならないのではないか。
そんな風に思う。
真の洞察力を養うには、いつでもどこでも自然に冥想ができることが大切であろう。
そして、冥想する力を養うには、正しい呼吸法が大切だと、私は考えている。
金曜日, 11月 04, 2005
病気を治すのではなく人生を治そう
今、健康法がおおはやりだ。
かくいう私も、健康法や代替医療にかかわっている。
だから、そういう仕事にかかわっている時間が多い。
しかし、こういう流行の健康法や病気の治療法を考えることよりも、人生の治療を、人生の病気を治すことが根本治療になると私は考える。
人生という総合的な事柄の中に、その一つとして病気や健康があるのだ。
人生という言葉の意味することは、生まれてから死ぬまでの時間の道を旅する旅人の経験する出来事、事件、そして、風景、共に歩む人たち、そして体、心、深い精神性つまり魂の体験、そういうことの総称である。
かくいう私も、健康法や代替医療にかかわっている。
だから、そういう仕事にかかわっている時間が多い。
しかし、こういう流行の健康法や病気の治療法を考えることよりも、人生の治療を、人生の病気を治すことが根本治療になると私は考える。
人生という総合的な事柄の中に、その一つとして病気や健康があるのだ。
人生という言葉の意味することは、生まれてから死ぬまでの時間の道を旅する旅人の経験する出来事、事件、そして、風景、共に歩む人たち、そして体、心、深い精神性つまり魂の体験、そういうことの総称である。
木曜日, 11月 03, 2005
科学では絶対に答えられない問い
科学の進歩が目覚しく、今分らないことでもいつかは、分るようになると思われることは、たくさんある。
しかし、科学では絶対に答えられない問いもたくさんあろう。
その中でも、もっとも重要な問いは、自分とは何かという問いだ。その問いに答えるには、自分自身がじかに答えるしか方法がない。
自分の外から、自分に答えるのではなくて、直に答えなくてはならないから、客観的に答えようとしては、無意味となってしまう。
あなたは、だれ?
と聞かれて、私が答えるその答えは、どんな答えだろうか。
そんなことを詩的に下記のURAに書いた。
http://uchyu.blog.ocn.ne.jp/
しかし、科学では絶対に答えられない問いもたくさんあろう。
その中でも、もっとも重要な問いは、自分とは何かという問いだ。その問いに答えるには、自分自身がじかに答えるしか方法がない。
自分の外から、自分に答えるのではなくて、直に答えなくてはならないから、客観的に答えようとしては、無意味となってしまう。
あなたは、だれ?
と聞かれて、私が答えるその答えは、どんな答えだろうか。
そんなことを詩的に下記のURAに書いた。
http://uchyu.blog.ocn.ne.jp/
日曜日, 10月 02, 2005
宝玉の日々
久しぶりに早朝の庭に出た。
すでに秋だった。
一抹の寂しさを感じながら、この二週間ほどの間に起きたことを思い起こしている。昨日もおとといも、窓の外に展開する稲刈りの様子を観ていたが、秋を感じはしなかった。今日になってしみじみと庭を見ることが出来たのは、父がなくなったあとのさまざまなことが一段落したからだろうか。
一期一会という言葉がある。今の出会いは、今生ただ一回の出会いだから、大切にせよという意味だ。
私は、一劫一会という言葉を時々使う。
劫とは、「四十里四方の大岩に百年に一回、天人が舞い降りて、薄絹の羽衣で岩をこすって、天上に戻る。このようにして、岩が少しずつ削り取られてなくなるまでの、気の遠くなるような長い時間」という意味だ。
輪廻転生するとか、天国地獄を信じるか信じないかはそれぞれの人の生き方に任せるが、次のことだけは間違いなく確かだ。
私たちが今この時代、この場所、この名前で、このような人間関係で付き合うのは、たとえ一劫という時間を転生しようがしまいが、今生のただ一回だけだ。
「今日、この瞬間の出会いが大切だ」と深く感じるようになったのは、今年の春から夏にかけてだ。最初は、子供が高校を卒業し、家を出たときに、「あっという間だったな」と思った。あっという間でも、子供が生まれてからこのときまでいつも充実していた。充実した人生を天が与えてくれたものかもしれない。
充実していたけれども、あっという間だった。
とすれば、妻と向き合って食事をする当たり前の時間もまた、あっという間にすぎてしまうに違いない。書斎で文章を書いていると妻の弾くピアノが聞こえる。ずっと前からいつでも聞こえてくるので、これも当たり前になっている。
でも、こういう日々もいつかは終わりになる。
「今当たり前なことは、本当は当たり前のことなのではない。」
一日一日が、宝玉のように尊い。
そういう実感がひしひしと感じられる。
誰かのいった言葉ではない。
私の中から沸きあがる声がそのように迫ってくるのだ。
すでに秋だった。
一抹の寂しさを感じながら、この二週間ほどの間に起きたことを思い起こしている。昨日もおとといも、窓の外に展開する稲刈りの様子を観ていたが、秋を感じはしなかった。今日になってしみじみと庭を見ることが出来たのは、父がなくなったあとのさまざまなことが一段落したからだろうか。
一期一会という言葉がある。今の出会いは、今生ただ一回の出会いだから、大切にせよという意味だ。
私は、一劫一会という言葉を時々使う。
劫とは、「四十里四方の大岩に百年に一回、天人が舞い降りて、薄絹の羽衣で岩をこすって、天上に戻る。このようにして、岩が少しずつ削り取られてなくなるまでの、気の遠くなるような長い時間」という意味だ。
輪廻転生するとか、天国地獄を信じるか信じないかはそれぞれの人の生き方に任せるが、次のことだけは間違いなく確かだ。
私たちが今この時代、この場所、この名前で、このような人間関係で付き合うのは、たとえ一劫という時間を転生しようがしまいが、今生のただ一回だけだ。
「今日、この瞬間の出会いが大切だ」と深く感じるようになったのは、今年の春から夏にかけてだ。最初は、子供が高校を卒業し、家を出たときに、「あっという間だったな」と思った。あっという間でも、子供が生まれてからこのときまでいつも充実していた。充実した人生を天が与えてくれたものかもしれない。
充実していたけれども、あっという間だった。
とすれば、妻と向き合って食事をする当たり前の時間もまた、あっという間にすぎてしまうに違いない。書斎で文章を書いていると妻の弾くピアノが聞こえる。ずっと前からいつでも聞こえてくるので、これも当たり前になっている。
でも、こういう日々もいつかは終わりになる。
「今当たり前なことは、本当は当たり前のことなのではない。」
一日一日が、宝玉のように尊い。
そういう実感がひしひしと感じられる。
誰かのいった言葉ではない。
私の中から沸きあがる声がそのように迫ってくるのだ。
日曜日, 9月 11, 2005
魂のキャッチボール
父は、九十三歳。
夏の間に、少しずつ体力が弱まり、八月末にとうとう入院をした。
一時は、危篤だということで、東京へ行ったが、持ち直している。 とはいえ、医者はあまり長くないから、親戚などに知らせ、今のうちに会っておいてもらった方がいいという。
病院での感想は
いつもながら医者は、病気を見ているけれども患者の人生を見ていないなと思った。
入院しているという状態は、患者にとってその人生の一駒なんだという理解があると、対応がもう少し違うのではないか。
親切でないとか、サービスが悪いというようなことではない。
若い医者だからしょうがないといえばいえるかもしれないけれども、難しいことには違いない。
なんと言うのか、例えば、私がヨーガの指導をするとき、私もみんなもその瞬間、人生を共有しているという感覚が大切なのと同じではないかと思うのだ。
感覚の世界だ。
医者も患者を診ているその瞬間は、自分の人生の一齣で、その一齣を患者と共有しているという感覚が欲しいのだ。
医者がいうことも、やることも変わらなくてもいいのだ。
このことは、あらゆる人間関係に通じるだろう。買い物をするとき、店員と客とはそれぞれの人生の一齣を共有する時間なのだ。
物だけが、そのこを移動するのではない。
店員も客も、魂のキャッチボールをしているのだという事を忘れてはならないだろう。
夏の間に、少しずつ体力が弱まり、八月末にとうとう入院をした。
一時は、危篤だということで、東京へ行ったが、持ち直している。 とはいえ、医者はあまり長くないから、親戚などに知らせ、今のうちに会っておいてもらった方がいいという。
病院での感想は
いつもながら医者は、病気を見ているけれども患者の人生を見ていないなと思った。
入院しているという状態は、患者にとってその人生の一駒なんだという理解があると、対応がもう少し違うのではないか。
親切でないとか、サービスが悪いというようなことではない。
若い医者だからしょうがないといえばいえるかもしれないけれども、難しいことには違いない。
なんと言うのか、例えば、私がヨーガの指導をするとき、私もみんなもその瞬間、人生を共有しているという感覚が大切なのと同じではないかと思うのだ。
感覚の世界だ。
医者も患者を診ているその瞬間は、自分の人生の一齣で、その一齣を患者と共有しているという感覚が欲しいのだ。
医者がいうことも、やることも変わらなくてもいいのだ。
このことは、あらゆる人間関係に通じるだろう。買い物をするとき、店員と客とはそれぞれの人生の一齣を共有する時間なのだ。
物だけが、そのこを移動するのではない。
店員も客も、魂のキャッチボールをしているのだという事を忘れてはならないだろう。
あーしゅらむとは道場という意味
あーしゅらむとは、道場という意味だ。
自分自身の体が、自分を見つめ、自分を深めるための道場だという意味でこのタイトルをつけた。
私は、世界に対して、違和感を持っていた。何かが、自分にしっくりこない。
この感覚は、いわゆる現実生活を送る中で、埋没されてしまう。
しかし、本当に本当のところ、何かが違う。何かまったく別な世界に自分は、本当はいるのだという感覚を拭い去ることができない。
人に読んでもらおうなどと思わずに、というか、人がどう思おうが勝ってだという気持ちで書いているうちは、何ともなかったが、人に評価されるようになると、誰の感性とも自分は違う、自分と本当に同じ心を持つ人がいないということをしみじみと味わうのだった。
そんなことを考えているうちにいつのまにか、人に読んでもらうために、あーしゅらむを書いているようになった。それが、だんだんに苦しくなってきたのだ。
それで通信を書けなくなってきた。
でも、何か自分で自分に対して確認をとるために書かずに入られない思いにかられる。
そこで、このブログを始めてみた。
自分自身の体が、自分を見つめ、自分を深めるための道場だという意味でこのタイトルをつけた。
私は、世界に対して、違和感を持っていた。何かが、自分にしっくりこない。
この感覚は、いわゆる現実生活を送る中で、埋没されてしまう。
しかし、本当に本当のところ、何かが違う。何かまったく別な世界に自分は、本当はいるのだという感覚を拭い去ることができない。
人に読んでもらおうなどと思わずに、というか、人がどう思おうが勝ってだという気持ちで書いているうちは、何ともなかったが、人に評価されるようになると、誰の感性とも自分は違う、自分と本当に同じ心を持つ人がいないということをしみじみと味わうのだった。
そんなことを考えているうちにいつのまにか、人に読んでもらうために、あーしゅらむを書いているようになった。それが、だんだんに苦しくなってきたのだ。
それで通信を書けなくなってきた。
でも、何か自分で自分に対して確認をとるために書かずに入られない思いにかられる。
そこで、このブログを始めてみた。
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