火曜日, 4月 02, 2019

筑波みんなのヨーガ

筑波みんなのヨーガの活動が始まり、ことしで4年目になりました。
4月~6月のスケジュールが決まりました。
御案内します。

土曜日, 9月 20, 2014

橋田邦彦研究 1

橋田邦彦は、道元の自然観を正法眼蔵研究から学び、次のような立場に立つにいたったのではないか。

彼は日本人であり東洋人である。彼の思想の基盤。物の考え方の基盤は、いかに西洋科学を学び、哲学に触れていようと基本機に東洋思想が骨身にしみ込んでいた。
だから、私といういのちは存在のすべてと一つのものであるという自覚を容易に得ていた。

そして、それを自己と他己は一つのものだと云った。

その立場から、生身の人体、いのちを科学するものの立場を確立した。

私が自己であるなら、存在のすべては他己である。
それは異なったものではなく。
一つのものである。
一つのものだといっても、ただ一つというのではない。
ただ「一つだ」というだけでは、機械と同じだ。
時計だって、歯車の一個が欠ければ、動かない。

そういうことを云っているのではない。
「これは部分である」「これは全体である」
という風に凝り固まったものではない。


部分と全体とは、それぞれが流動的であると同時に、観察者も流動的である。
いや、観察者と借りに書いたが、そんな固定的な存在はない。


観察者も溶け合って一味である。
全体が、生き生きと流動している一なるものである。

例えば、
筋肉など体内の部分は、部分の立場から全体を見るとき、部分と全体は一つのものであると。
たとえば、筋肉という部分を自己とすると、身体は他己である。


HHP(ヒューマンハイパフォーマンス)は、この意味で、「運動する自己と自己を取り巻くすべてと変動する全体としてみなくてはならない」はずだ。


金曜日, 7月 11, 2014

時の旅人は、さらりと歩こう


除夜の鐘を聞きながら、フッと気がつきました。
  「自然は、さらりと歳をまたぐ』と。
 私は、うかつにも、時の流れに沿わずに、
  「ばたばた、ぎすぎす歩こうとしている」と。
 それで考えました。
  「そうか、今夜はさらりとまたいでみよう』と。
 たださらりと歩めば、
  疲れ果てることもない。迷うこともない。
  一山越えたら、次の山。
  「今年は、そんな歩き方をしよう」と。


東洋的時間哲学が、頭の中をぐるぐる回る。忙しいけれども、静かな年の瀬だった。

私は、呼吸法の実験のために、毎朝起きると、血圧を二一回計る。
血圧測定でつくづく感じることは、測定のたびに値が変化することだ。
誰でも知っていることだが、このように変化することを科学しなくていいのか。
命は、常に変化し続けている。
だから、命。
その変化し続けていることをありのままに、科学しなくていいのか。
橋田邦彦が、全体論を批判して全機性にたどり着いた理由はここにあるのではないか。
彼が、道元にたどり着き、正法眼蔵を研究したのは、禅はその今の変化し続けている瞬間をとらえよ、というからかもしれない。

このことについて、私には公案禅の禅問答を観る方が分かりやすいような気がする。

禅には、公案がある。
橋田邦彦の公案は、「命とは何か」だった。
彼は、それで全機性という言葉にたどり着いた。
分ったら、それを徹底させなければならない。
人生において、徹底させる作業、それを行という。

彼における行は、禅僧のそれとは違う。
彼の行とは、科学すること、実験し、観察すること、自然をありのままに観ること。
彼の行を支える師として、彼が選んだのが道元であり、師の言葉として正法眼蔵があった。

年の瀬、橋田邦彦の「正法眼蔵釈意」を読んでいて、「さらりと歳をまたぐ」ということに、私はたどり着いた。

さらり、さらりと時間をまたぐ。
さらりさらりと月日をまたぐ。
さらりと年を超える。
時の旅人は、このように歩く。

大晦日に思ったこと、自然はさらりと歳をまたぐ。
人は、興奮したり感動したり、緊張したり、様々な思いを抱いて歳をまたぐ。
そうか。
自分はさらりと歳をまたごうと。
去年は去年で全機。
今年は今年で全機。
今というこの一瞬は、はさらりと過ぎていく。
日々これ好日とは、このことだ。

生は生で全機。
死は死で全機。
ならば、さらりとまたごう。

自己也全機。
他己也全機。
ハスの葉の水滴のように、唯コロコロとさらさらと。
水滴は世界を映し、日に輝く。
それでいていのちは、自律。
自己は自己に於いて自律。
他己は他己に於いて自律。
目的をもって、時間をさらり、すらりと、またいでいく。
時の旅人は、こだわらず。
偏らず。
とらわれず。
ありのままに、歩みゆく。

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金曜日, 7月 04, 2014

身心を問う

私は、ヨーガや呼吸法、東洋思想に基づくエクササイズに携わっている。

だからと思う。
西洋医学を批判する考え方を持っている人と接することは、とても多い。

いわゆる、代替医療だ。

一方で、西洋医学が最高だと考えているのだろう。
何かあれば、病院にまず駆けつける人がいる。

彼自身の中で、この矛盾をどう考えているのだろうか。

体や心に対する、見方、思想、考え方、学問のあり方は、文化、地理、歴史のちがいで、驚くほど多様で、同じ人間の身心なのに、何でこんなにちがうのだろうと、不思議だ。

教育や育ちでもまったく変わってしまう。

それなのに、人間は、呼吸をして、食べて、働き、遊び、スポーツをし、セックスをする。
それには、文化や歴史など関係ない。

何で、こんなに見え方がちがってしまうのか。

一人一人の身心の個人差。
文化の違いというだけでは、説明できないと思う。

では、私自身の身心を見つめるとそこに何が見えているのか。
西洋思想の身心でも、東洋思想の身心でもない。

ただあるものは、あるしかない。
健康でもないし、病気でもない。
生きているという事実しかない。
呼吸をし、食べて、働き、遊び、スポーツをし、セックスをする。

そういう営みをする本体は、いったい何だろうか。

こうした問いを問うていると、自分の中で、また新しい何かが生まれてくるから、おもしろい。

火曜日, 6月 10, 2014

すべてに使える! 世阿弥に学ぶスキルアップ術

世阿弥の完成させた能は、ユネスコの世界文化遺産になっています。

しかし、世阿弥の言葉は遺産なんというものではなく、現代に生きる我々の生活やビジネスにそのまま生かせられる智慧が詰まっています。
これをみんなが知らなくてはとてももったいないと思います。
特に、今の自分の技術や仕事の能力を高めて、より豊かでまた、心の満ち足りた自分になりたいと、思っている方には、必読の書だともいえます。
このことをみんなに知っていただきたいと思って、具体的でわかりやすく、世阿弥の言葉を読み取れる様に、アマゾンのkindlebkookにしました。
タイトルは、「すべてに使える! 世阿弥に学ぶスキルアップ術」です。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%88%E3%82%8B%EF%BC%81%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E8%A1%93-%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%8E%84%E6%9C%B4-ebook/dp/B00KU4EQSS/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1402439044&sr=8-1&keywords=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%8E%84%E6%9C%B4
スマホかタブレット( kindleかアンドロイドかiOS )で読めます。
皆様のお役に立てられれば幸いです。
 
 

火曜日, 5月 13, 2014

世阿弥 妙花風

私たちはみんな、自分の能力を高めたいと思っています。

スキルアップをしたいのです。

私たちは知識や智慧、技術などのスキルを高めてこそ目的の実現が可能になるからですね。
人によって様々な目的をもっています。
仕事でも、スポーツや遊びでも、家庭生活でも、その営みの中に目的があります。

どんな目的にも共通するのは幸せのため。
いかえると「愛に満ち、豊かで、健康である」とうことではないかと思います。

そして、そのために努力をします。

ただ漫然とした努力でなく、具体的なものごとを通じて、幸せを実現する技術を通してだと思います。

エーリッピフロムという心理学者がいました。
彼は、「愛する」ということも技術であると言いました。
「愛する」は、相互的です。
愛することと愛されることとは、キャッチボールです。
キャッチボールを磨いていかなければ、愛を実現することは出来ません。
異性愛でも、家族愛でも、人間や動物、大自然を愛することもすべて同じでしょう。

物質的な豊かさもそうでしょう。
お金を貯めるだけ、物を自分のところに集中するだけでは、何のための豊かさかわかりません。
老後のためにお金を貯めるのでも、それは使うときを考えての一時的な貯金です。

健康であるには、やはり一定の技術がいります。
普通、健康法という言葉で様々な技術が普及しているので、今更いうまでもありません。
家庭を持つことも職につくことも自由に遊びまわることも地位、権威と名声をえることも、全部この中に含まれます。

こうした目的のために、
技術を磨き続けていくうちに、いつしか無心の状態になります。
それは、自分も対象も消えて、
ありのままの自己が自在に生きている状態です。

そのとき、自己の存在そのものがそのまま自足しています。


自己は、すべての存在、宇宙と一体なのです。
そのような在り方に生きているとき、彼の周りは花が咲いたように、よろこびに満たされます。
環境、社会とよろこびの波動の共鳴を起しています。

そのことを世阿弥は、妙花風といいました。
「妙と言ふは、言語道断、心行所蔵なり。夜半の日頭、これ又言語の及ぶべき處か、如何。然れば、当道の堪能の幽風、褒美も及ばず。無心の感、無位の位風の離見こそ、妙花にや有るべき。」九位

 

水曜日, 3月 26, 2014

三秒間無心術で人生快適

誰でも、どうにもならない苦境に立たされることがあると思います。
そのとき、その問題が頭の中をただただ空回りするだで、なにもできず、自分のすべてに自由が無くなります。
その奴隷状態から、どうしたら脱出できるか。

私は、十九歳の時から、生活における禅の探求の道を歩み、呼吸法やヨーガ、坐禅をし、また指導をしてきましたが、それでもなお苦境に陥ることがあります。

昔は、自分の修行が足りないからと、努力しました。
しかし、努力は効果がないばかりか、逆効果にすらなりました。

やがて、「この状態から脱出しよう」などと考えないで、ただやっていれば、いつのまにか苦境から抜け出られているという体験が積み重さねられました。

それでもなお、自分にとってものすごく大きな問題に出会うと、なかなか自由をとりもどせないで、夜も眠れず、もがくことが起きました。
そういうとき、どうしたらいいのか。
いろいろと試みました。

そして、ヨーガの呼吸法と丹田呼吸法を組合わせてちょっと工夫すると、効果があることが分かりました。

それが、この三秒間無心術です。

苦境に陥ったときの考え方と、呼吸法をテーマに書いたのが、この「三秒間無心術で人生快適」です。
ぜひ、お読みください。