除夜の鐘を聞きながら、フッと気がつきました。
「自然は、さらりと歳をまたぐ』と。
私は、うかつにも、時の流れに沿わずに、
「ばたばた、ぎすぎす歩こうとしている」と。
それで考えました。
「そうか、今夜はさらりとまたいでみよう』と。
たださらりと歩めば、
疲れ果てることもない。迷うこともない。
一山越えたら、次の山。
「今年は、そんな歩き方をしよう」と。
東洋的時間哲学が、頭の中をぐるぐる回る。忙しいけれども、静かな年の瀬だった。
私は、呼吸法の実験のために、毎朝起きると、血圧を二一回計る。
血圧測定でつくづく感じることは、測定のたびに値が変化することだ。
誰でも知っていることだが、このように変化することを科学しなくていいのか。
命は、常に変化し続けている。
だから、命。
その変化し続けていることをありのままに、科学しなくていいのか。
橋田邦彦が、全体論を批判して全機性にたどり着いた理由はここにあるのではないか。
彼が、道元にたどり着き、正法眼蔵を研究したのは、禅はその今の変化し続けている瞬間をとらえよ、というからかもしれない。
このことについて、私には公案禅の禅問答を観る方が分かりやすいような気がする。
禅には、公案がある。
橋田邦彦の公案は、「命とは何か」だった。
彼は、それで全機性という言葉にたどり着いた。
分ったら、それを徹底させなければならない。
人生において、徹底させる作業、それを行という。
彼における行は、禅僧のそれとは違う。
彼の行とは、科学すること、実験し、観察すること、自然をありのままに観ること。
彼の行を支える師として、彼が選んだのが道元であり、師の言葉として正法眼蔵があった。
年の瀬、橋田邦彦の「正法眼蔵釈意」を読んでいて、「さらりと歳をまたぐ」ということに、私はたどり着いた。
さらり、さらりと時間をまたぐ。
さらりさらりと月日をまたぐ。
さらりと年を超える。
時の旅人は、このように歩く。
大晦日に思ったこと、自然はさらりと歳をまたぐ。
人は、興奮したり感動したり、緊張したり、様々な思いを抱いて歳をまたぐ。
そうか。
自分はさらりと歳をまたごうと。
去年は去年で全機。
今年は今年で全機。
今というこの一瞬は、はさらりと過ぎていく。
日々これ好日とは、このことだ。
生は生で全機。
死は死で全機。
ならば、さらりとまたごう。
自己也全機。
他己也全機。
ハスの葉の水滴のように、唯コロコロとさらさらと。
水滴は世界を映し、日に輝く。
それでいていのちは、自律。
自己は自己に於いて自律。
他己は他己に於いて自律。
目的をもって、時間をさらり、すらりと、またいでいく。
時の旅人は、こだわらず。
偏らず。
とらわれず。
ありのままに、歩みゆく。
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