日曜日, 11月 30, 2025

ヨーガ風味の俳句

 みんなのヨーガニュース12月号

もうじき、発表します。
この中から。いま、こっそり師走にちなんだ俳句をご紹介します。
俳句 ヨーガ風味
年の瀬を
ガヤトリーとなえ
乗り越える
手元に「Super Science of Gayatri」by Shriram Sharma Acharyaがある。
この本をRandeep先生から頂いたのはコロナの前だったとおもう。そのとき、はじめてガヤトリーマントラを知った。
そのころの、大きな行き詰まり感を懐いていた年の瀬に、私はガヤトリーマントラを唱えて乗り切った。毎年、師走になるとそれを思い出す。
Yoga for All News December Issue
The issue will be released soon.
From this issue, I'd like to sneak in a haiku poem related to December.
Haiku with a Yoga Flavor
Tosinose-wo Gayatori-tonaete Norikoeru
I have a copy of "Super Science of Gayatri" by Shriram Sharma Acharya at hand. I think it was before COVID-19 began, but I received this book from Professor Randeep. That was when I first learned about the Gayatri Mantra. At the end of the year, when I was feeling extremely stuck, I got through it by chanting the Gayatri Mantra. Every year, when December comes around, I remember that experience.
Nesyougatu Asakara-banmade Shava asana
(In bed New Year's Day
From morning to night Shavasana)
Som one "Hey, I can hear the voices of a New Year's Day comedy show coming from your room. How is that called savasana?“
I "Ah, that's a tough excuse!“
Can someone please continue with 7-7?

木曜日, 11月 06, 2025

つげの実

 柘植の実や 

赤に負けても 
なんのその
柘植(つげ)といえば、櫛、印鑑、将棋の駒。成長が遅いうえに黒い実をつける。垣根にあっても注目を浴びない。
目立たず、静けさを誘う。
だから、写真に撮ろうなどと思ったことがない。
私は晩秋の青空に映える赤い南天に見とれていたが、柘植の実に気が付いて、この実に少しこだわって撮った。
Boxwood berries—
Though they pale beside red,
So what?
Boxwood—think combs, seals, shogi pieces.
Slow-growing, bearing black berries.
Even in hedges, it draws no attention.
Unobtrusive, inviting stillness.
So I never thought to photograph it.
I was captivated by the red nandina berries against the late autumn blue sky, but I noticed the boxwood berries and decided to focus on them a little while taking this photo.




水曜日, 11月 05, 2025

ヒイラギ

 ヒイラギの  実に隠れたる  鳩一羽

朝日に誘われて、外に出るとヒイラギの実がさわやかに輝いていた。
一粒、取ろうと手を伸ばしたら、鳩が一羽飛び出していった。
実の果肉を味わいながら、「鳩も食べていたのかな。でも、種には毒があるから種まで食べていないだろうか?」と、余計な心配をした。
今日は、小春日和のいい一日になりそうだ。
A single dove
hidden
among holly berries
Lured by the morning sun, I stepped outside to find the holly berries sparkling brightly.
As I reached to pluck one, a dove flew away.
Savoring the berry's flesh, I worried needlessly: “Was the dove eating them too? But the seeds are poisonous—I hope it didn't eat the seeds.”
Today promises to be a lovely day, like a little spring day.


日曜日, 11月 02, 2025

悟りの体験

 悟り体験をしたときの印象が残っている内に、話を聞くことは、めったに出来ない体験です。

たまたま、スロベニア人のKlavdijaさんからその話を(日本語で)聞くことができました。

このような体験をありのままに言葉にすることが難しいので、訥々と話すことになりますが、この対話を記録できたことは誠に幸運でした。

これを2本のYouTubeT動画にしました。

1本目では、体験そのものを語っています。

https://youtu.be/5HH9i2ZUXLc

約7分。

2本目の内容は、

この体験をすることで、自分の使命にめざめ「自分が本当に考えている教育の在り方」学びなおすために、途中でやめていた博士課程を先に進めようと思ったこと、

心は、常に変化するので、今後、この思いが続くか吟味しようと彼女は考えていること、を語っています。
彼女は、「自身の精神心理的な悩み」を解決するのに苦労をしてきました。このような悩みの源は、教育にあると考え、スロベニアに帰って以後もヨーロッパ各地で実践的に本当の教育の在り方を模索しています。

https://youtu.be/rRURscWgW2s

約12分。

火曜日, 4月 02, 2019

筑波みんなのヨーガ

筑波みんなのヨーガの活動が始まり、ことしで4年目になりました。
4月~6月のスケジュールが決まりました。
御案内します。

土曜日, 9月 20, 2014

橋田邦彦研究 1

橋田邦彦は、道元の自然観を正法眼蔵研究から学び、次のような立場に立つにいたったのではないか。

彼は日本人であり東洋人である。彼の思想の基盤。物の考え方の基盤は、いかに西洋科学を学び、哲学に触れていようと基本機に東洋思想が骨身にしみ込んでいた。
だから、私といういのちは存在のすべてと一つのものであるという自覚を容易に得ていた。

そして、それを自己と他己は一つのものだと云った。

その立場から、生身の人体、いのちを科学するものの立場を確立した。

私が自己であるなら、存在のすべては他己である。
それは異なったものではなく。
一つのものである。
一つのものだといっても、ただ一つというのではない。
ただ「一つだ」というだけでは、機械と同じだ。
時計だって、歯車の一個が欠ければ、動かない。

そういうことを云っているのではない。
「これは部分である」「これは全体である」
という風に凝り固まったものではない。


部分と全体とは、それぞれが流動的であると同時に、観察者も流動的である。
いや、観察者と借りに書いたが、そんな固定的な存在はない。


観察者も溶け合って一味である。
全体が、生き生きと流動している一なるものである。

例えば、
筋肉など体内の部分は、部分の立場から全体を見るとき、部分と全体は一つのものであると。
たとえば、筋肉という部分を自己とすると、身体は他己である。


HHP(ヒューマンハイパフォーマンス)は、この意味で、「運動する自己と自己を取り巻くすべてと変動する全体としてみなくてはならない」はずだ。


金曜日, 7月 11, 2014

時の旅人は、さらりと歩こう


除夜の鐘を聞きながら、フッと気がつきました。
  「自然は、さらりと歳をまたぐ』と。
 私は、うかつにも、時の流れに沿わずに、
  「ばたばた、ぎすぎす歩こうとしている」と。
 それで考えました。
  「そうか、今夜はさらりとまたいでみよう』と。
 たださらりと歩めば、
  疲れ果てることもない。迷うこともない。
  一山越えたら、次の山。
  「今年は、そんな歩き方をしよう」と。


東洋的時間哲学が、頭の中をぐるぐる回る。忙しいけれども、静かな年の瀬だった。

私は、呼吸法の実験のために、毎朝起きると、血圧を二一回計る。
血圧測定でつくづく感じることは、測定のたびに値が変化することだ。
誰でも知っていることだが、このように変化することを科学しなくていいのか。
命は、常に変化し続けている。
だから、命。
その変化し続けていることをありのままに、科学しなくていいのか。
橋田邦彦が、全体論を批判して全機性にたどり着いた理由はここにあるのではないか。
彼が、道元にたどり着き、正法眼蔵を研究したのは、禅はその今の変化し続けている瞬間をとらえよ、というからかもしれない。

このことについて、私には公案禅の禅問答を観る方が分かりやすいような気がする。

禅には、公案がある。
橋田邦彦の公案は、「命とは何か」だった。
彼は、それで全機性という言葉にたどり着いた。
分ったら、それを徹底させなければならない。
人生において、徹底させる作業、それを行という。

彼における行は、禅僧のそれとは違う。
彼の行とは、科学すること、実験し、観察すること、自然をありのままに観ること。
彼の行を支える師として、彼が選んだのが道元であり、師の言葉として正法眼蔵があった。

年の瀬、橋田邦彦の「正法眼蔵釈意」を読んでいて、「さらりと歳をまたぐ」ということに、私はたどり着いた。

さらり、さらりと時間をまたぐ。
さらりさらりと月日をまたぐ。
さらりと年を超える。
時の旅人は、このように歩く。

大晦日に思ったこと、自然はさらりと歳をまたぐ。
人は、興奮したり感動したり、緊張したり、様々な思いを抱いて歳をまたぐ。
そうか。
自分はさらりと歳をまたごうと。
去年は去年で全機。
今年は今年で全機。
今というこの一瞬は、はさらりと過ぎていく。
日々これ好日とは、このことだ。

生は生で全機。
死は死で全機。
ならば、さらりとまたごう。

自己也全機。
他己也全機。
ハスの葉の水滴のように、唯コロコロとさらさらと。
水滴は世界を映し、日に輝く。
それでいていのちは、自律。
自己は自己に於いて自律。
他己は他己に於いて自律。
目的をもって、時間をさらり、すらりと、またいでいく。
時の旅人は、こだわらず。
偏らず。
とらわれず。
ありのままに、歩みゆく。

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