月曜日, 2月 25, 2013

自分とはすべてのすべて 2

自分とはすべてのすべて

このことが、わかったと思った瞬間、その真実は手元からするりとこぼれ落ちてしまう。

わかったと思ったら、その瞬間に、その思いを捨てなくてはならない。
捨てて、捨てて捨て続ける。

でも、「捨てる」と意識する、その意識も捨て去って、
なおかつ、意識は明瞭で、いきいきとしている。

捨てるというのは本当ではない。
自然に消え去る。
ただ、それだけのことである。

深淵

最近、よく思うことは、「生きるって深いことだなあー」ということだ。

自分とはすべてのすべて

「私」という存在は、すべてのすべてである。
このことは、理屈でも、宗教でもない。
存在の本質をひとことで言っているにすぎない。

この「すべて」であることは、人は本来、誰でもがよく知っていることだ。
ただ、忘却しているにすぎない。
ときに、思い出すことがある。
しかし、そのことの大事さに気づくには、時間がかかる。

そして、それを真実に自己のものとして、自己のうちに溶け込むには、
誰でも、それなりの体験の蓄積と努力が必要である。

 

金曜日, 2月 01, 2013

無心はいつも今ここに

「あたりまえ」と思っていたことが
「えっ?」
「何?」」「違うの?」と一瞬思う。
その言葉が出る直前に現われているいのちそのもの。
それを無心という。
この無心は、いつもそこに現われ続けているが気がつかない。
無心を大切に意識化しつつ、意識化した瞬時に、捨てて歩む。
それがこだわりなき心。

無心にして、大安心。
無心になるというのではない。

無心に任せるということ。

一瞬の「!?」の時、いのちが現成している。
それは、無心。
悩み、迷うとき、
この「!?」のいのちの現成に任せるとき、大安心。

無心は、いつも、今ここにあり続けているのだから。