百二十㌢四方の紙に太い筆で円を書く。
まず、すずりに向かう。
姿勢を調え、落ち着いて静かに墨をする。
穏やかな活力呼吸法をしながら、墨をする。
強い活力呼吸法をしながら太い筆に、たっぷりと墨を含ませる。
紙と向き合って、姿勢と呼吸を調える。
下腹に力を入れてゆっくりと息を吐きながら書く。
一円で一呼吸だ。
一円書いたら、静かに筆に墨を含ませる。
紙を取り替えてまた一円。
一呼吸に一円。
何枚も何枚も書きつづける。
上手にかけたとか、ぐにゃぐにゃの円だとか、そういう判断が消えたとき、なんでもいいその時、これだという文字を書いてみる。
すると、急に頭の中がざわざわとする。
「ああ、今まで沈黙があったのだな」と気がつく。
その一呼吸になりきったとき、沈黙が支配する。そのことを呼吸法と言う。
呼吸法の難しさは、下腹を絞るなどのやり方にあるのではない。吐いているときに吸うことを考えてしまうところに難しさがある。
このやり方でいいのかと考えてしまうところにある。
ただ吐くことだけになりきれない難しさにある。
なりきるためには、心をしっかりした場所に置くことだ。一番いいのが、心を下腹の恥骨に近いところに置くことだ。
丹田とか、チャクラとか色々な言い方があるが、そういうイメージ的意味づけにこだわるのはバツだ。
自分の心が落ち着く一点は、そこしかない。
そこが沈黙の一点だ。
月曜日, 1月 25, 2010
一円相
友人が数年ぶりに遊びに来てくれた。
私たちは少ない言葉で語り合った。
ポツリポツリと話題が浮かんでは消えていった。
書の話になる。彼は書道をするのだ。
「希望の朝」と書いてある小学生の作品を見ながら「これは大胆でいいね。太いし、大きくてはみ出している。」
「こっちのは優しいな。」
「この『の』字はよく書けているね。筆をかえすところがうまくできている。」
「難しい。僕なんか、大人になっても形を整えられなかった。」
「書は上手下手ではないよ。」
「うん。何か語っているものがある。」
「踊っているなんて言うのはあんまりいい意味には使われないけど」
「筆が舞う、ということもある。」
……
「子供の字を添削するときはどういう風に見るの?」
「よいところに丸をつける。」
「おとなしい子がおとなしくまとまった字を書く分けではないね。」
「うん。勢いとか、筆遣いとかで意外な字を書く子がいるよね。」
「こころが書かれている。」
「隠れた性格とか」
「そう言えば、『朝』ならいかにも朝の感じがするような字を書く練習をしている人が牛久にいたよ。」
「そう言うのも面白いな。」
この友人とは、かつて大きな紙に一円相を書いた。
いく枚も書いているうちに筆は自由に動き、前衛的な書というか抽象画のようになった。これを仮に自由書と呼ぼう。
それは、その瞬間の沈黙の一筆で終わる。同じものは二度と現れない。
ちょうど人によって指紋が違うように、ここに描かれた模様は一瞬の時間の指紋が形として残されたといえる。
時間の矢は流れる。瞬間瞬間に時間は指紋を残す。
私たちの生活の、ほんのわずかな所作、たとえば箸の上げ下ろしの瞬間の中に。
湯呑を口に持って行く所作から通勤電車の中でただひたすら到着を待っているときにも、指紋が残る。
しかし、形としては残らない。
ただ、指紋を書きとめる手段があれば自由書のようにみることができるだろう。
さて、一円相を何枚も書いてから、そのような自由書を書いてから文字を書いてみる。
たとえば、「希望の朝」と……。
すると、脳の働き方がグラッと変化することが経験される。
円相や自由書と文字を書くのとでは感覚がぜんぜん違う。異質なのだ。
意識の質が違うのだ。文字を書く働きは、いわば自我的。円相や自由書を書くときの意識の働きは「無」の場にある。
冥想的である。
こういう変化は、日常生活の中にあたりまえにあるが、このことがはっきりわかるのが、円相-自由書-文字というこのやり方だ。
<一円相>や<自由書>は文字ではないから勢いとか、優しさとか、緊張、萎縮、大胆さなどが如実に現れる。
円相を書き始めるときは、上手に書こうとか、どの辺にどのくらいの大きさで書けばバランスがとれるかとか、いろいろと体裁を考える。そういうものが指紋として残される。
幾枚も幾枚も書いているうちに、そのような思考は消えてゆく。
大きな紙だから体力も使う。
体を使うことで精一杯だから、考えは消えて行く。
何も考えないままに書く。
それが自由書に続き文字に移る。
文字は意味を持つ。とたんに思考が始まる。
つまり、行間を読む心の働きから、意識の中心が文字ないし行という、いわばデジタル的な情報を読む心に移行しているのだ。
普通に冥想を始めると、じきに静けさを感じられる瞬間が来る。
それでいて、聞こえてくる雑音はそのままだ。
自分が透明になって、すべての音がすり抜けて行くようだといったらいいかもしれない。
いままでざわざわとしていた心が急に森閑とする状態だ。これは、<円相-自由書>にあたる。
冥想の坐から、立ちあがると心は再びさまざまな言葉が飛び交うようになる。
<文字>にあたる。
実際の冥想状態は多様で、つぎつぎとイメージが湧き上がることも、ひとつのイメージが続くことも、イメージが薄れ消えて行くことも、まったくの「無」も。恍惚とした状態になることも。
歓喜に包まれることも。そのほかさまざまにある。
そして、まったく同じ経験を二度とはしない。また、私の冥想経験とあなたの冥想経験とは、同じにはならない。
同じようなものとして、括弧でくくることができてもちがう。
それを言葉に表すときひとによって、文学的に表現したり、宗教経験として表現したり、絵画や音楽で表現したり、心理現象として記述したりする。
しかし言葉では、その本質にたどり着くことはできない。
私たちは少ない言葉で語り合った。
ポツリポツリと話題が浮かんでは消えていった。
書の話になる。彼は書道をするのだ。
「希望の朝」と書いてある小学生の作品を見ながら「これは大胆でいいね。太いし、大きくてはみ出している。」
「こっちのは優しいな。」
「この『の』字はよく書けているね。筆をかえすところがうまくできている。」
「難しい。僕なんか、大人になっても形を整えられなかった。」
「書は上手下手ではないよ。」
「うん。何か語っているものがある。」
「踊っているなんて言うのはあんまりいい意味には使われないけど」
「筆が舞う、ということもある。」
……
「子供の字を添削するときはどういう風に見るの?」
「よいところに丸をつける。」
「おとなしい子がおとなしくまとまった字を書く分けではないね。」
「うん。勢いとか、筆遣いとかで意外な字を書く子がいるよね。」
「こころが書かれている。」
「隠れた性格とか」
「そう言えば、『朝』ならいかにも朝の感じがするような字を書く練習をしている人が牛久にいたよ。」
「そう言うのも面白いな。」
この友人とは、かつて大きな紙に一円相を書いた。
いく枚も書いているうちに筆は自由に動き、前衛的な書というか抽象画のようになった。これを仮に自由書と呼ぼう。
それは、その瞬間の沈黙の一筆で終わる。同じものは二度と現れない。
ちょうど人によって指紋が違うように、ここに描かれた模様は一瞬の時間の指紋が形として残されたといえる。
時間の矢は流れる。瞬間瞬間に時間は指紋を残す。
私たちの生活の、ほんのわずかな所作、たとえば箸の上げ下ろしの瞬間の中に。
湯呑を口に持って行く所作から通勤電車の中でただひたすら到着を待っているときにも、指紋が残る。
しかし、形としては残らない。
ただ、指紋を書きとめる手段があれば自由書のようにみることができるだろう。
さて、一円相を何枚も書いてから、そのような自由書を書いてから文字を書いてみる。
たとえば、「希望の朝」と……。
すると、脳の働き方がグラッと変化することが経験される。
円相や自由書と文字を書くのとでは感覚がぜんぜん違う。異質なのだ。
意識の質が違うのだ。文字を書く働きは、いわば自我的。円相や自由書を書くときの意識の働きは「無」の場にある。
冥想的である。
こういう変化は、日常生活の中にあたりまえにあるが、このことがはっきりわかるのが、円相-自由書-文字というこのやり方だ。
<一円相>や<自由書>は文字ではないから勢いとか、優しさとか、緊張、萎縮、大胆さなどが如実に現れる。
円相を書き始めるときは、上手に書こうとか、どの辺にどのくらいの大きさで書けばバランスがとれるかとか、いろいろと体裁を考える。そういうものが指紋として残される。
幾枚も幾枚も書いているうちに、そのような思考は消えてゆく。
大きな紙だから体力も使う。
体を使うことで精一杯だから、考えは消えて行く。
何も考えないままに書く。
それが自由書に続き文字に移る。
文字は意味を持つ。とたんに思考が始まる。
つまり、行間を読む心の働きから、意識の中心が文字ないし行という、いわばデジタル的な情報を読む心に移行しているのだ。
普通に冥想を始めると、じきに静けさを感じられる瞬間が来る。
それでいて、聞こえてくる雑音はそのままだ。
自分が透明になって、すべての音がすり抜けて行くようだといったらいいかもしれない。
いままでざわざわとしていた心が急に森閑とする状態だ。これは、<円相-自由書>にあたる。
冥想の坐から、立ちあがると心は再びさまざまな言葉が飛び交うようになる。
<文字>にあたる。
実際の冥想状態は多様で、つぎつぎとイメージが湧き上がることも、ひとつのイメージが続くことも、イメージが薄れ消えて行くことも、まったくの「無」も。恍惚とした状態になることも。
歓喜に包まれることも。そのほかさまざまにある。
そして、まったく同じ経験を二度とはしない。また、私の冥想経験とあなたの冥想経験とは、同じにはならない。
同じようなものとして、括弧でくくることができてもちがう。
それを言葉に表すときひとによって、文学的に表現したり、宗教経験として表現したり、絵画や音楽で表現したり、心理現象として記述したりする。
しかし言葉では、その本質にたどり着くことはできない。
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