人生を命の学問(生物学)の対象として考察する。
そして、よりよき人生の充実を目指す。
科学者と親しく付き合っていると、どのような学問を専門にする科学者も、その学問をする人の人生から世界を見ている。
とすれば、人生そのものを学問にすることも出来るはずだ。
「そのような学問があるとすれば、どんなジャンルになるかな」と、考えた。
それは社会学でもないし心理学でもない「生物学ではないか!」と思い当たった。
それで、Life Biology(人生生物学)と名づけた。
人生生物学とは、生まれてから死ぬまでの人生そのものの生物学。
ストレスなど環境刺激を受けて、心が動き、身体が変化しながら、成長、成熟、人間として完成し生を全うするそのすべての生物学。
生きる時間の中で、身体と心のすべての生物学。
社会に生きる、家庭に生きる、創造する、森羅万象宇宙の法則を発見する、真理を探究する、スピリチュアリティー(霊性)を発揮する、信念や信仰に生きる……人間の営みは多様でそれぞれに奥深い。
それぞれに自らの道を意義あるものと考えている。
では、そのように営む主体は何か。
その主体を仮に「われ」と呼んでおきたい。
誕生の瞬間から死ぬまで、環境に応じ変化し続け、生きがいを見出し、目的や理想に向かって突き進む。そういう「われ」の生物学をLife Biology(人生生物学)という。
人生(Life)という言葉を考えてみよう。
人生というのは、心が無くては成り立たない。体が無くては成り立たない。
心と体は、ソフトとハードの関係ではない。
ソフトとハードの関係は、ソフトはハードが無くてもある。ハードはソフトが無くてもある。
ハードがなくてはソフトは動かない。ソフトだけあってハードがなければ、何もおきない。
よく体験する例でいえば、CDメディアあるけど、プレーヤーが無くて困るということと同じだ。
そういう関係だ。
しかし、心と体はそういう関係ではない。
紙の裏表の関係だ。
裏が無ければ、表は無い。表が無ければ裏は無い。
陰陽の関係だ。
陰が無ければ陽は無い。陽が無ければ陰はない。
時空の関係だ。
時間が無ければ空間は無い。空間が無ければ時間は無い。
心が無ければ体は無い。体が無ければ心は無い。
体と心があっての人生。
人生丸ごとの生物学。
それをLife Bioligyと呼ぶことにする。
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ここで誤解のないように付け加えておきたい。
魂とか神仏は、肉体や心とは関係が無い。
心でもないし肉体でもない。
個々の心と肉体によって感受されるかどうかで、あるとかないとか言う話になる。
Life Bioligyが対象とするものではない。
木曜日, 4月 30, 2009
日曜日, 4月 05, 2009
魂の旅のために
私たちは、ひとりひとりそれぞれ一つの道を選ぶ性向を持って生まれてくる。
心理学で言うように「こういう幼児体験によってこういう人生を歩んでいる」というのではない。
また、生まれたときから目的が決まっているのでも、何かのために生まれたのでもない。
遺伝子によってそうなるのか。
しかし遺伝子は、私が私として生きる意味をいだいて、一つの傾向を持たせるようなものではないだろう。
ものごとや人、社会と向き合ったとき、一瞬一瞬に出くわす出来事に対して、自分のとる態度には、一貫した傾向がある。
そういう傾向を持って私たちは生まれてくる。
ほかに選択があっても、そうせざるを得ないような止むに止まれぬ想いに駆られて行動する。
そういう傾向だ。
このことが、人生を成功させるか失敗別だ。
成功や失敗は、その傾向をどのように表現するか、どのような目的として表現するか、その目的に向かって意志を持ち続けられるか、と関係するだろう。
何か問題に遭遇したとき、自分の傾向を見据えるとき、
今、この瞬間の自分にとって大切なことが見えてくる。
アクシデントが起きたとき、
それはこの傾向を目的化し、意志を持って追求していくチャンスだ。
それをチャンスとするかどうかは、自分の選択にかかっていて、傾向ではない。
その選択には、自由が与えられている。
心理学で言うように「こういう幼児体験によってこういう人生を歩んでいる」というのではない。
また、生まれたときから目的が決まっているのでも、何かのために生まれたのでもない。
遺伝子によってそうなるのか。
しかし遺伝子は、私が私として生きる意味をいだいて、一つの傾向を持たせるようなものではないだろう。
ものごとや人、社会と向き合ったとき、一瞬一瞬に出くわす出来事に対して、自分のとる態度には、一貫した傾向がある。
そういう傾向を持って私たちは生まれてくる。
ほかに選択があっても、そうせざるを得ないような止むに止まれぬ想いに駆られて行動する。
そういう傾向だ。
このことが、人生を成功させるか失敗別だ。
成功や失敗は、その傾向をどのように表現するか、どのような目的として表現するか、その目的に向かって意志を持ち続けられるか、と関係するだろう。
何か問題に遭遇したとき、自分の傾向を見据えるとき、
今、この瞬間の自分にとって大切なことが見えてくる。
アクシデントが起きたとき、
それはこの傾向を目的化し、意志を持って追求していくチャンスだ。
それをチャンスとするかどうかは、自分の選択にかかっていて、傾向ではない。
その選択には、自由が与えられている。
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