日曜日, 11月 01, 2009

まず呼吸法から始める

健康は、才能と同じで、健康に恵まれた人は、苦労なく健康を手に入れて天寿を満足できるでしょう。
ただ、才能におぼれて失敗することがあるように、健康におぼれて不健康になることもあるでしょう。
暴飲暴食や飲酒、タバコなどのこともあるでしょうし、「健康だから」と無理をしてしまうこともあるでしょう。
そうなったときに健康を回復するのは、容易でないことも私たちはよく経験しています。
どのように努力したらいいのでしょうか。

また、特別な才能を持っていない人が大勢いるのと同じように、特別に健康に恵まれているわけではない人も、大勢いると思います。
もしかすると、吾々のほとんどはそれほど健康に恵まれていないかもしれません。
そういう場合、現代生活では健康を阻害する要因が多すぎることもあり、かなり努力しないと命を全うするときまで健康を維持できないでしょう。

一方、健康情報は無数にあります。
そして、新しいことが次々と分かってきます。
そういう中で、健康のために何をどのように努めたらいいのでしょうか。

冷静に自分の身体を見つめながら、自分にとって一番いい方法を見つけなくてはなりません。
それで、すべてがよくなるわけではありませんが、私たちにとってまずしなくてはならない最初のことは、身心を静かに見据えて、一番いい方法を見つけ出す感性を養うことではないかと私は考えています。

感性を養うには、呼吸法が非常に役に立つと私は考えています。
呼吸法が役立つのは、それだけではありません。
生きる上で、健康のことばかりでなくさまざまなことが起きます。
それに対処し、「充実した人生を歩むために呼吸法がある」と、私は考えています。

そして、この感性には脳幹、大脳基底核、視床下部、脳幹など、身心の機能を調整しているさまざまな仕組みがかかわっています。
そして、これらの部位はまた、人間関係をよくしたり、身心の健康を維持したりするなど人間の人間として生きる上で重要な役割を担っています。

ですから、呼吸法は人生丸ごと改善する上で、役立つと、私は考えています。

それで私は、何かあれば先ず呼吸法から始めることにしています。

金曜日, 8月 14, 2009

一夜賢者の偈

ある田舎町の駅で電車を待っていると、売店のおばさんと客との話が耳に入った。
「お金が入らなくなってね」
「どうしたの」
「リストラにあったんだよ」
「そうなの。それでどうするの」
「仕方がない。どうしようもない」
会話からすると、売店のおばさんと客とはなじみのようだ。
こんな田舎の町でも派遣社員のリストラが、起きているのだ。

日々深刻化する、派遣社員の切捨てなどについて、さまざまな角度から報道されている。
ただ、報道では個性が無視されている。
辞めさせられた人の心の内は、同じように困り、同じように強い不安を持っている。
そのようにみえてしまう。

今あなたが、困難な状態に陥っているとして、あなたの困難は、ほかの人の苦境と同じではないし、必ずしも一般的な解決法が役に立つとは限らない。

ひとりひとり違うから、ある人は自殺してしまうし、ある人はこれをチャンスに変える。
その幅の中で無数の答えがある。

自分にしかわからないことがあるし、自分にはできてほかの人には解決できない方法だってあるかもしれない。

私たちは、一人ひとり自分自身の問題に自分自身の内側で、真正面から受け止めて、解決しなければならない。
では、どのように受け止めたらいいだろうか。
その答えは、下の偈にある。

一夜賢者の偈

過ぎ去れることを追うことなかれ。
いまだ来たらざることを念(おも)うことなかれ。

過去、そはすでに捨てられたり。
未来、そはいまだ到らざるなり。

されば、ただ現在するところのものを、
そのところにおいてよく観察すべし。

揺らぐことなく、動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。

ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。
たれか明日死のあることを知らんや。

まことに、かの死の大軍と、
遭わずというは、あることなし。

よくかくのごとく見きわめたるものは、
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。

かくのごときを、一夜賢者といい、
また、心しずまれる者とはいうなり。
中部経典 増谷文雄訳

味わいのある、真に自分のものとなるべき偈は、一度読んでもわからない。
二度読んでもわからない。
三度、四度、何度でも繰り返し呼んでいるうちに、ああそうだとわかる。
わかっても、繰り返し読んでみよう。
新しい発見は、何回でも、起きる。
自分が進歩するに従って、何度でも発見がある。

この偈は、お釈迦様の物語のなかにある。
お釈迦様のお弟子さんにサミッディという方がいらした。彼がマガタ国の王舎城で修行をしていた時のことである。
サミッディはその時、温泉に浸かっていた。すると天人がやってきて、サミッディに問いかけた。
「偉大なるお釈迦様のもとで修行されている方よ、あなたは『一夜賢者の偈(げ-詩のこと)』をご存知ですか」
サミッディは知らなかった。
「いや、知りません。それはどんなものですか」
「修行者よ、それはあなたの師にお尋ねになるがいいでしょう」
天人は、そう言い残して去っていった。
彼がお釈迦様のところへ行って尋ねた。
それがこの偈である。

お釈迦様は、「一夜賢者の偈」を説き終えると、静かにその場を立ち去っていったという。

どんな意味なのか、どんな解釈なのかは、「一夜賢者の偈」をネットで検索すればたくさん出てくる。それを参考にしていただきたい。

ただ私は、おしゃかさんが言いたかった急所は、
「そわ見極め、そを実践すべし」だと理解している。

「自分のすべきことを見極めて、行動せよ」
自己洞察と行動である。
行動することは、体を使うこと、筋肉を使って体を動かすこと、
心の問題を心あるいは頭での解決を求めているのではない。
お釈迦様は、何よりも行動を求めていると私は理解する。

今に生きるというような抽象的なことでなく、自分の意志で行動することを求めているのではないだろうか。
行動こそが具体性そのものだからだ。

ここでちょっとうがった観方をしてみよう。
これはサミッディの物語だ。
サミッディは、なんで温泉につかっていたのだろうか。
修行に疲れたのだろうか。
人生に行き詰まっていたのだろうか。
しばし癒しのときを過ごしていたに違いない。

そのとき何かが彼の頭の中をよぎった。
「こんなことをしている場合か ! 」
癒しだけでは何も進まないのだ。

木曜日, 4月 30, 2009

Life Biology(人生生物学)

人生を命の学問(生物学)の対象として考察する。
そして、よりよき人生の充実を目指す。

科学者と親しく付き合っていると、どのような学問を専門にする科学者も、その学問をする人の人生から世界を見ている。
とすれば、人生そのものを学問にすることも出来るはずだ。
「そのような学問があるとすれば、どんなジャンルになるかな」と、考えた。
それは社会学でもないし心理学でもない「生物学ではないか!」と思い当たった。
それで、Life Biology(人生生物学)と名づけた。

人生生物学とは、生まれてから死ぬまでの人生そのものの生物学。
ストレスなど環境刺激を受けて、心が動き、身体が変化しながら、成長、成熟、人間として完成し生を全うするそのすべての生物学。
生きる時間の中で、身体と心のすべての生物学。

社会に生きる、家庭に生きる、創造する、森羅万象宇宙の法則を発見する、真理を探究する、スピリチュアリティー(霊性)を発揮する、信念や信仰に生きる……人間の営みは多様でそれぞれに奥深い。
それぞれに自らの道を意義あるものと考えている。

では、そのように営む主体は何か。
その主体を仮に「われ」と呼んでおきたい。
誕生の瞬間から死ぬまで、環境に応じ変化し続け、生きがいを見出し、目的や理想に向かって突き進む。そういう「われ」の生物学をLife Biology(人生生物学)という。

人生(Life)という言葉を考えてみよう。
人生というのは、心が無くては成り立たない。体が無くては成り立たない。

心と体は、ソフトとハードの関係ではない。
ソフトとハードの関係は、ソフトはハードが無くてもある。ハードはソフトが無くてもある。
ハードがなくてはソフトは動かない。ソフトだけあってハードがなければ、何もおきない。
よく体験する例でいえば、CDメディアあるけど、プレーヤーが無くて困るということと同じだ。
そういう関係だ。

しかし、心と体はそういう関係ではない。

紙の裏表の関係だ。
裏が無ければ、表は無い。表が無ければ裏は無い。
陰陽の関係だ。
陰が無ければ陽は無い。陽が無ければ陰はない。
時空の関係だ。
時間が無ければ空間は無い。空間が無ければ時間は無い。

心が無ければ体は無い。体が無ければ心は無い。
体と心があっての人生。
人生丸ごとの生物学。
それをLife Bioligyと呼ぶことにする。
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ここで誤解のないように付け加えておきたい。
魂とか神仏は、肉体や心とは関係が無い。
心でもないし肉体でもない。
個々の心と肉体によって感受されるかどうかで、あるとかないとか言う話になる。
Life Bioligyが対象とするものではない。

日曜日, 4月 05, 2009

魂の旅のために

私たちは、ひとりひとりそれぞれ一つの道を選ぶ性向を持って生まれてくる。

心理学で言うように「こういう幼児体験によってこういう人生を歩んでいる」というのではない。
また、生まれたときから目的が決まっているのでも、何かのために生まれたのでもない。

遺伝子によってそうなるのか。
しかし遺伝子は、私が私として生きる意味をいだいて、一つの傾向を持たせるようなものではないだろう。

ものごとや人、社会と向き合ったとき、一瞬一瞬に出くわす出来事に対して、自分のとる態度には、一貫した傾向がある。
そういう傾向を持って私たちは生まれてくる。
ほかに選択があっても、そうせざるを得ないような止むに止まれぬ想いに駆られて行動する。
そういう傾向だ。

このことが、人生を成功させるか失敗別だ。
成功や失敗は、その傾向をどのように表現するか、どのような目的として表現するか、その目的に向かって意志を持ち続けられるか、と関係するだろう。

何か問題に遭遇したとき、自分の傾向を見据えるとき、
今、この瞬間の自分にとって大切なことが見えてくる。
アクシデントが起きたとき、
それはこの傾向を目的化し、意志を持って追求していくチャンスだ。
それをチャンスとするかどうかは、自分の選択にかかっていて、傾向ではない。
その選択には、自由が与えられている。