日曜日, 9月 11, 2005

魂のキャッチボール

父は、九十三歳。
夏の間に、少しずつ体力が弱まり、八月末にとうとう入院をした。
一時は、危篤だということで、東京へ行ったが、持ち直している。 とはいえ、医者はあまり長くないから、親戚などに知らせ、今のうちに会っておいてもらった方がいいという。

病院での感想は
いつもながら医者は、病気を見ているけれども患者の人生を見ていないなと思った。
入院しているという状態は、患者にとってその人生の一駒なんだという理解があると、対応がもう少し違うのではないか。

親切でないとか、サービスが悪いというようなことではない。

若い医者だからしょうがないといえばいえるかもしれないけれども、難しいことには違いない。
なんと言うのか、例えば、私がヨーガの指導をするとき、私もみんなもその瞬間、人生を共有しているという感覚が大切なのと同じではないかと思うのだ。

感覚の世界だ。

医者も患者を診ているその瞬間は、自分の人生の一齣で、その一齣を患者と共有しているという感覚が欲しいのだ。
医者がいうことも、やることも変わらなくてもいいのだ。

このことは、あらゆる人間関係に通じるだろう。買い物をするとき、店員と客とはそれぞれの人生の一齣を共有する時間なのだ。
物だけが、そのこを移動するのではない。
店員も客も、魂のキャッチボールをしているのだという事を忘れてはならないだろう。

あーしゅらむとは道場という意味

あーしゅらむとは、道場という意味だ。
自分自身の体が、自分を見つめ、自分を深めるための道場だという意味でこのタイトルをつけた。

私は、世界に対して、違和感を持っていた。何かが、自分にしっくりこない。

この感覚は、いわゆる現実生活を送る中で、埋没されてしまう。
しかし、本当に本当のところ、何かが違う。何かまったく別な世界に自分は、本当はいるのだという感覚を拭い去ることができない。

人に読んでもらおうなどと思わずに、というか、人がどう思おうが勝ってだという気持ちで書いているうちは、何ともなかったが、人に評価されるようになると、誰の感性とも自分は違う、自分と本当に同じ心を持つ人がいないということをしみじみと味わうのだった。

そんなことを考えているうちにいつのまにか、人に読んでもらうために、あーしゅらむを書いているようになった。それが、だんだんに苦しくなってきたのだ。
それで通信を書けなくなってきた。

でも、何か自分で自分に対して確認をとるために書かずに入られない思いにかられる。
そこで、このブログを始めてみた。

時代を超えて

時代を超えて、人の心の中に貫いている真実の魂がある。そんな魂を自分自身の中に見つけながら、過去に生きた無数の人格とも、未来に現れるであろう無数の人格とも、語り合いたい。
そんな気持ちになって、このブログを始めた。