橋田邦彦は、道元の自然観を正法眼蔵研究から学び、次のような立場に立つにいたったのではないか。
彼は日本人であり東洋人である。彼の思想の基盤。物の考え方の基盤は、いかに西洋科学を学び、哲学に触れていようと基本機に東洋思想が骨身にしみ込んでいた。
だから、私といういのちは存在のすべてと一つのものであるという自覚を容易に得ていた。
そして、それを自己と他己は一つのものだと云った。
その立場から、生身の人体、いのちを科学するものの立場を確立した。
私が自己であるなら、存在のすべては他己である。
それは異なったものではなく。
一つのものである。
一つのものだといっても、ただ一つというのではない。
ただ「一つだ」というだけでは、機械と同じだ。
時計だって、歯車の一個が欠ければ、動かない。
そういうことを云っているのではない。
「これは部分である」「これは全体である」
という風に凝り固まったものではない。
部分と全体とは、それぞれが流動的であると同時に、観察者も流動的である。
いや、観察者と借りに書いたが、そんな固定的な存在はない。
観察者も溶け合って一味である。
全体が、生き生きと流動している一なるものである。
例えば、
筋肉など体内の部分は、部分の立場から全体を見るとき、部分と全体は一つのものであると。
たとえば、筋肉という部分を自己とすると、身体は他己である。
HHP(ヒューマンハイパフォーマンス)は、この意味で、「運動する自己と自己を取り巻くすべてと変動する全体としてみなくてはならない」はずだ。
彼は日本人であり東洋人である。彼の思想の基盤。物の考え方の基盤は、いかに西洋科学を学び、哲学に触れていようと基本機に東洋思想が骨身にしみ込んでいた。
だから、私といういのちは存在のすべてと一つのものであるという自覚を容易に得ていた。
そして、それを自己と他己は一つのものだと云った。
その立場から、生身の人体、いのちを科学するものの立場を確立した。
私が自己であるなら、存在のすべては他己である。
それは異なったものではなく。
一つのものである。
一つのものだといっても、ただ一つというのではない。
ただ「一つだ」というだけでは、機械と同じだ。
時計だって、歯車の一個が欠ければ、動かない。
そういうことを云っているのではない。
「これは部分である」「これは全体である」
という風に凝り固まったものではない。
部分と全体とは、それぞれが流動的であると同時に、観察者も流動的である。
いや、観察者と借りに書いたが、そんな固定的な存在はない。
観察者も溶け合って一味である。
全体が、生き生きと流動している一なるものである。
例えば、
筋肉など体内の部分は、部分の立場から全体を見るとき、部分と全体は一つのものであると。
たとえば、筋肉という部分を自己とすると、身体は他己である。
HHP(ヒューマンハイパフォーマンス)は、この意味で、「運動する自己と自己を取り巻くすべてと変動する全体としてみなくてはならない」はずだ。