最近、松本零士の漫画、宇宙戦艦ヤマト、宇宙戦艦まほろば、銀河鉄道999、キャプテンハーロックをたて続けに読みました。
妙に惹かれるものがあったからです。
そして、以下のような文章がわいてきました。
私の受け取り方は、間違っているかも知れません。
今の時代には合わないかも知れません。
でも、私の心の底に潜んでいた想いだったことはたしかです。
作者松本零士がなにを語ろうとしているのか、私の中にすとんと落ち着くものを感じる。
それは、「第二次世界大戦で非業の死を遂げたすべての戦死者の魂に語りかけている物語なのだ」ということだ。
お国のために彼らは死んでいった。
でも、本当は自分のために死んで生きたかったのではないか。
自分の夢や理想、家族のために命を賭けて戦ったのだと言いたかった。
しかし、時代は「国のために死ね」と言う。
松本零士は、彼らの魂とともにあって、彼自身の魂の世界に戦死者の魂を呼び、「この世界で君たちと一緒に、納得できる目的のために、夢や理想のために、家族のために、本当に納得できる目的のために生きよう」と、語りかけているのではないか。
そのように思える。
戦後社会に始まった混乱は、非業の死を遂げた彼らの魂の言葉を聞くことなく、
今生きている自分の欲望を追求することのみを善として追求してきた。
それは、死というものを前提としない、生しか存在を許さない社会を意味する。
だから、兵士たちの魂の叫びを聞こうとすらしない。
テレビのドラマでは毎日何人も殺人や自殺者が映し出されるが、そんなものは本当の死者ではないことは、誰でも知っている。
だからテレビは映す。
そんなものに、死を訴える力はない。
逆に、偽の死を毎日見せることによって、本当の死を隠しているのではないだろうか。
そして、テレビや新聞は本物の死者をまともに直視しない。
現代社会では、そこに生きるものには死者の存在が許されないのだ。
死者の写真はどこにも映し出されることはないのだ。
死者はいつもブルーのビニールシートに覆われて、画面に登場する。
しかし、死者がそこにいるとされているビニールシートの下に本当に亡くなった方がいるのだろうか。
それは、このたびの震災でもそうだった。
国や東電は、真実を隠していると、マスコミも識者も国民も声高に叫んでいる。
そうかも知れない。
しかし、本当に隠蔽されているのかどうか、私はその真実を知らない。
同じように、死者はビニールシートの下に、本当にいるのだろうか。
「死者がいる」という抽象的な言葉だけは知らされても、死者そのものの具体的な存在をみることはない。
現代医学もまた死を許そうとしない。
なんとしてでも生かそうとする。
その結果、脳溢血で倒れると、多くの人が死ぬことが出来ず、寝たきりになってしまう。
社会の構成員として最後に自らのいのちを全うさせることを医学は許そうとはしないのだ。
家族すら延命を願う。
それを社会は、善と呼ぶようだし、愛と呼ぶのかも知れない。
ただただ、寝たきりの状態を作りだし、介護施設に隔離しようとしている。
隔離して社会から抹殺して、本人が本当に死ぬことが出来たときには、その死を社会はほとんど知らないですむような仕組みを作り出しているのだ。
介護保険の仕組みは、強制収容所を作る仕組みのようなものではないか。
寝たきりになって何年もたち、ようやく死ねたときには、家族はその死を知れるが、かつての戦友である職場の仲間、友はとっくに彼の存在を忘れている。
いや、忘れてはいない。
しかし、存在が希薄になってしまっているのだ。
医療費や介護費がどんどんふくらんで、どんなに大きな負担を社会が強いられようと、死者を作るまいとする。
死がないまま、社会から抹殺する仕組みを作っている。
私たちはいずれ死ぬ。
死にたくても、死にたくなくても、いずれ死ぬ。
そして、死はやはり恐怖であることは変わりない。
柳田国男の『サクリファイス』という本がある。
そこに書かれていることは、こうだ。
彼の息子が精神を病み、自死を選んだのであるが、「息子の死の意味をどのように親である自分がとらえたらいいのか」と著者は苦悩する。
息子は、『自分が死ねば自分の存在は、どこにも痕跡を残さずに永遠に消えてしまう』ことを悩んで結果として自死を選んだのである。
このような苦悩が生まれる背景には、死者の魂を意識的に抹殺する現代社会の習癖があるのだと思う。
死の瞬間とは、「その人が生きたそのままが生かされる瞬間」なのではないか。
その瞬間が、魂を確かな実在にしてくれる。
その瞬間がないと、魂は希薄になり、やがて誰の心にも残らす、消えていく。
介護の果ての死は、彼(かれ)がかく生きようとした(このように生きようとして、生ききり、苦悩をし、幸せを得、努力した)すべてがすり切れてしまってから、ようやく死ねるというシステムによって、強制された結果としての死である。
本来なら死ぬことによって、人間は彼が生きている今のこの瞬間の強烈な存在感が一瞬に絶たれた結果として、残ったものへの強烈なメッセージとなるはずである。
その強烈なメッセージがすり切れぼろぼろになってから、ようやく死ねるというのが、現代ではないか。
私は医師の内場廉先生が熱烈に訴える寝たきりを半分に減らせというメッセージに感動して、内場医師とともにNPO法人を作った。
私には、内場先生が「こうした社会の仕組みと戦って、死の瞬間まで強烈な存在感を示して生き抜ける自分になりましょう」と、言っているように思えるのだ。
かつては死を直視しようとする社会だった。
そういう社会では、宗教も社会の構成要素としてしっかりと足場を築いていた。
今は、御利益のためにしか宗教が存在しない。
あるいは、宗教は見せかけの弔で巨額の富を築きあげている。
私の薫陶を受けた禅は、死を見つめる宗教だった。
そのような坐禅をし呼吸法だった。
呼吸法という営みは、まさに今ここに生きていることは死と同一のものだと見極めるためにある。
武道は、今でもその道に真剣に生きるもには、死と向き合うことを旨とされている。
茶の道もそうだった。
一部の人たちをのぞいて多くはスポーツ化しすでに道は廃れてしまっているが、もともとそういうものだった。
スポーツも元々は、戦、つまり死と隣り合わせで生まれ進化したはずだ。
今は、そういうスポーツは、ないだろう。
今、放射能に対する異常な恐怖が、世の中を席巻している。
ここで、原発がいい悪いをいうつもりはない。
見えない恐怖は、添加物、農薬、環境汚染、気候変動による食糧危機、限りない世界人口の増加、いくらでもある。
放射能は、そうしたものの一つに過ぎない。
何シーベルト、何ベクトルという。
数値という魔術に引っかかって、現代人は恐怖を抱いている。
現代人が感じている環境や、社会に対する漫然とした不安を、放射能は代表して数値で示してくれているのではないか。
数値によって人は、リアリティーを感じるからだ。
数値によって、死の恐怖を具体的にみせてくれるからだ。
つまり、皆が放射能に注目するのは、死というリアリティーを感じさせてくれるからではないか。
死のリアリティーこそ、今ここに生きているという生のリアリティーを確かなものにしてくれるのだ。
いつ、東海、関東、西南海地震が起きるか判らない。
余震が続く間は、その恐怖もまた、生死のリアリティーを私たちに突きつけてくれるであろう。
死をひた隠しにしてきた現代社会のほころびが今、見え始めた。
それが震災後の社会が目の当たりにしていることではないか。
今後、私たちが、死を見据えていく社会を作っていけるかどうかで、日本の将来が決まってくるように私は思う。