ある田舎町の駅で電車を待っていると、売店のおばさんと客との話が耳に入った。
「お金が入らなくなってね」
「どうしたの」
「リストラにあったんだよ」
「そうなの。それでどうするの」
「仕方がない。どうしようもない」
会話からすると、売店のおばさんと客とはなじみのようだ。
こんな田舎の町でも派遣社員のリストラが、起きているのだ。
日々深刻化する、派遣社員の切捨てなどについて、さまざまな角度から報道されている。
ただ、報道では個性が無視されている。
辞めさせられた人の心の内は、同じように困り、同じように強い不安を持っている。
そのようにみえてしまう。
今あなたが、困難な状態に陥っているとして、あなたの困難は、ほかの人の苦境と同じではないし、必ずしも一般的な解決法が役に立つとは限らない。
ひとりひとり違うから、ある人は自殺してしまうし、ある人はこれをチャンスに変える。
その幅の中で無数の答えがある。
自分にしかわからないことがあるし、自分にはできてほかの人には解決できない方法だってあるかもしれない。
私たちは、一人ひとり自分自身の問題に自分自身の内側で、真正面から受け止めて、解決しなければならない。
では、どのように受け止めたらいいだろうか。
その答えは、下の偈にある。
一夜賢者の偈
過ぎ去れることを追うことなかれ。
いまだ来たらざることを念(おも)うことなかれ。
過去、そはすでに捨てられたり。
未来、そはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在するところのものを、
そのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく、動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。
ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。
たれか明日死のあることを知らんや。
まことに、かの死の大軍と、
遭わずというは、あることなし。
よくかくのごとく見きわめたるものは、
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。
かくのごときを、一夜賢者といい、
また、心しずまれる者とはいうなり。
中部経典 増谷文雄訳
味わいのある、真に自分のものとなるべき偈は、一度読んでもわからない。
二度読んでもわからない。
三度、四度、何度でも繰り返し呼んでいるうちに、ああそうだとわかる。
わかっても、繰り返し読んでみよう。
新しい発見は、何回でも、起きる。
自分が進歩するに従って、何度でも発見がある。
この偈は、お釈迦様の物語のなかにある。
お釈迦様のお弟子さんにサミッディという方がいらした。彼がマガタ国の王舎城で修行をしていた時のことである。
サミッディはその時、温泉に浸かっていた。すると天人がやってきて、サミッディに問いかけた。
「偉大なるお釈迦様のもとで修行されている方よ、あなたは『一夜賢者の偈(げ-詩のこと)』をご存知ですか」
サミッディは知らなかった。
「いや、知りません。それはどんなものですか」
「修行者よ、それはあなたの師にお尋ねになるがいいでしょう」
天人は、そう言い残して去っていった。
彼がお釈迦様のところへ行って尋ねた。
それがこの偈である。
お釈迦様は、「一夜賢者の偈」を説き終えると、静かにその場を立ち去っていったという。
どんな意味なのか、どんな解釈なのかは、「一夜賢者の偈」をネットで検索すればたくさん出てくる。それを参考にしていただきたい。
ただ私は、おしゃかさんが言いたかった急所は、
「そわ見極め、そを実践すべし」だと理解している。
「自分のすべきことを見極めて、行動せよ」
自己洞察と行動である。
行動することは、体を使うこと、筋肉を使って体を動かすこと、
心の問題を心あるいは頭での解決を求めているのではない。
お釈迦様は、何よりも行動を求めていると私は理解する。
今に生きるというような抽象的なことでなく、自分の意志で行動することを求めているのではないだろうか。
行動こそが具体性そのものだからだ。
ここでちょっとうがった観方をしてみよう。
これはサミッディの物語だ。
サミッディは、なんで温泉につかっていたのだろうか。
修行に疲れたのだろうか。
人生に行き詰まっていたのだろうか。
しばし癒しのときを過ごしていたに違いない。
そのとき何かが彼の頭の中をよぎった。
「こんなことをしている場合か ! 」
癒しだけでは何も進まないのだ。