火曜日, 1月 03, 2006

ファイナルシークレット

元旦の夕方、ナイル川の源流を捜し求めた探検家達のことをテレビで放映していた。アフリカのジャングルを踏み込み、砂漠や湿地、高い山や大きな滝、そして、疫病などとさまざまな障害に挑みながら、偉大な古代文明を支えたナイル川の源流を見つけ出すことは、十八世紀の探検家達にとって、至難の業であった。
ナイル川の源流は、どこから発しているのだろうか。それらしき湖は幾つか見つかっても、なかなか大自然は秘密のベールをぬいてくれなかった。
やがて、候補となるいくつかの湖が見つかり、それぞれの湖から流れ出るいく筋もの河から大ナイル川を形成していた。
しかし、ファイナルシークレットが残された。巨大な湖群に大量の水を注ぎ込んでいるその源は、なにかという問題だった。


番組が終わってから、調べてみると、
アフリカというと、砂漠とジャングルを思い出すが、ジャングルの奥地から、広大な砂漠に流れ出て、乾燥した砂漠に河は飲み込まれることなく、さらに何千キロと、エジプトの大地を貫き、地中海に注ぎ込む。今日のナイル川の水量は、毎秒2830立方メートルもあるのだ。
そのもともとの水は、どこから来るのだろうか。
それは、エチオピアにある海抜5000メートル級の山に降りそそぐ雨が供給しているのだった。



この番組を見ていて、「ファイナルシークレット」という言葉が、耳に残った。
このとき、「僕にとって、ファイナルシークレットってなんだろう」とふと尋ねてみた。
そして、「自己こそファイナルシークレット」ではないかと思った。自分が問い掛けて、答えを求めつづけていることは、19歳のときから、一貫している。それは、「自分とは何か」という、問いだ。
この問いゆえに、ラーマクリシュナに興味をもちインド思想を勉強し、そこから、仏教、禅と老荘思想と、問いつづけてきた経緯がある。さらに、有田先生の坐禅のセロトニン仮説から、生理学的な視点からの自己追求という方向も始まった。この数年は、身心全体を動かしている生理学的システムを追求している。

しかし、今書いたことは、自己の存在の外側にむかって答えを求める姿勢が根底にある。

つまり、誰かの言葉か、客観的な答えを外界から見つけようという姿勢だ。

しかし、ファイナルシークレットの答えは、自己の内側から、見出さなければならないだろう。

その方法を冥想と呼び、坐禅と呼ぶ。その答えを求めて歩む人生を道を歩む旅人という。