久しぶりに早朝の庭に出た。
すでに秋だった。
一抹の寂しさを感じながら、この二週間ほどの間に起きたことを思い起こしている。昨日もおとといも、窓の外に展開する稲刈りの様子を観ていたが、秋を感じはしなかった。今日になってしみじみと庭を見ることが出来たのは、父がなくなったあとのさまざまなことが一段落したからだろうか。
一期一会という言葉がある。今の出会いは、今生ただ一回の出会いだから、大切にせよという意味だ。
私は、一劫一会という言葉を時々使う。
劫とは、「四十里四方の大岩に百年に一回、天人が舞い降りて、薄絹の羽衣で岩をこすって、天上に戻る。このようにして、岩が少しずつ削り取られてなくなるまでの、気の遠くなるような長い時間」という意味だ。
輪廻転生するとか、天国地獄を信じるか信じないかはそれぞれの人の生き方に任せるが、次のことだけは間違いなく確かだ。
私たちが今この時代、この場所、この名前で、このような人間関係で付き合うのは、たとえ一劫という時間を転生しようがしまいが、今生のただ一回だけだ。
「今日、この瞬間の出会いが大切だ」と深く感じるようになったのは、今年の春から夏にかけてだ。最初は、子供が高校を卒業し、家を出たときに、「あっという間だったな」と思った。あっという間でも、子供が生まれてからこのときまでいつも充実していた。充実した人生を天が与えてくれたものかもしれない。
充実していたけれども、あっという間だった。
とすれば、妻と向き合って食事をする当たり前の時間もまた、あっという間にすぎてしまうに違いない。書斎で文章を書いていると妻の弾くピアノが聞こえる。ずっと前からいつでも聞こえてくるので、これも当たり前になっている。
でも、こういう日々もいつかは終わりになる。
「今当たり前なことは、本当は当たり前のことなのではない。」
一日一日が、宝玉のように尊い。
そういう実感がひしひしと感じられる。
誰かのいった言葉ではない。
私の中から沸きあがる声がそのように迫ってくるのだ。